主宰の考える土蜘蛛荘の農産経営
私が考える土蜘蛛荘のイメージは、平家の敗残兵が落ち延びた「隠れ里」である。祖谷のかずら橋を渡った先の、山の中腹に隠し田が設けられた山村、的な感じだ。実際、戦国~江戸時代には重い年貢から逃れる隠し田が各地にあったようである。ラオスや中国のゾミア民族の様に、すぐにでも移住できるような移動式生活は考えていない。もちろん簡単に移動できるような生活ができることは理想的ではあるが、今の定住を前提とした日本において、移動はむしろ高価であり現実的ではない。
本国の道教は遺伝子組み換えのような新しい農業技術を敵視しているようだ。また道教ではない日本の脱資本主義的な、いわゆる「自然派」の人々も有機農業を崇拝しているようだが、私はこのような原理主義的自然派農業に教条的に追従する必要はないと考えている。
そもそも、老荘の流れを奉じる中華道教がGMOを疎んじるのはもっともである。老子は粗雑で誰でも作れる農具のみを評価していたし、彼の理想の生活像は漢民族ではない辺境のゾミア民族だったと思われる。「桃源郷」のエピソードも、恐らく辺境のゾミア民族と接触し感化された漢民族の口伝と捉えるのが自然だろう。実際、ゾミア民族はカヤックの作り方を覚えなかったり、バイクの修理方法をあえて覚えなかったりして、知的エリートが内部で形成されるのを防ぎ、不均衡を作らないようにすると研究されている。
しかし、私が以前このように書いたように、いま私たちがたらふく望むように食べられているのは、労働力の大半を割かなくても足りるほどの農業生産力を伸長させたからである。
したがって、むしろ新しい農業技術を用いて効率化したほうが、余暇時間を短縮できる可能性が高い。マルクス主義のような工業発展を前提とする社会主義も多い。実際「竹林の七賢」こそまさに知的エリートであり、知的エリートを有効活用する山村の協同社会主義こそ模索すべきであるというのが私の考えだ。
土蜘蛛荘では余剰農産物を売って食卓のバリエーションを増やす食物を購入するとともに、権力勾配が発生しない程度に軽工業を運営するだろう。山村では調達できる食材が限られるので、離島や漁村に移るのもよいだろう。
やくーと同志がおっしゃるように、だめライフ的アナキズムと革命的アナキズムは共存しうるものであり、実際この企画は前者を諦めた結果として前者を試験する枠組みである。
この計画はポスト・レフト・アナキズムに属するだけでなく、革命的アナキズムにも貢献するだろう。なぜならば、小さなコミュニティにおいて、どのように不条理な規則が生まれるのか、どのように規則が形成されていくのかをつぶさに記録していくチャンスでもあるからだ。
また小村を経営したノウハウは、いずれ労農戦線の運営、ひいては国政を経営する能力を培うのに活かせるはずである。
私のつたない考察であり、様々な声を頂戴して現実的な計画にまとめたいと思う。Discordサーバーもあるので、批判は遠慮なく寄せ、この企画に参加してほしい。みんなも土蜘蛛荘においでよ