すっぴんマスター的読み方入門
今回は読み方のはなし。読み方といっても、要するに読解のしかたということなので、内容としてはつきつめると「思考法」ということになるんではないかと(例によってまだなにも決めていない)。だから、書き方以上に個人的なはなしになるし、メソッド的なものはいよいよ期待できないはず。
前の記事が6000文字で、たぶんそれよりも長くなるから、目次を作りたいのだけど、うまくできなくて・・・。もしできるようになったらこっそり書き換えるとおもうけど、とりあえずいまは、これでご容赦ください・・・。(できました↓20210607)
僕のネット上の足場であるところのブログ「すっぴんマスター」では、小説など、読んだ本の批評に加えて、闇金ウシジマくん、それからバキシリーズの、本誌(ビッグコミックスピリッツ、少年チャンピオン)連載の感想を書いている。自己紹介の記事にも書いたとおり、もともとは、小説を書いていて、その勉強のためにブログをはじめたので、いまでも、もし「なんのブログか」と訊かれたら、書評ブログとこたえるようにはしている。しかし、いまうちを読んでいるかたの大半は、おそらく「ウシジマくんの感想書いてるとこ」という認識なのではないかとおもう。それはそれで問題なしというか、なんととらえようとその価値が変わってしまうわけではないので、どちらでもいいのだが、はなしの枕として、なぜこれらの漫画の感想を書くようになったかを書いていこうとおもう。
【読み方はいろいろあったほうがいい】
闇金ウシジマくんもバキも、それぞれに人気漫画であり、非常に多くの読者を抱えている。ウシジマくんは実写ドラマ・映画も好評だったし、バキはこの夏アニメ化されている(はるか昔にもいちどされたことがある)。こういう状況で、作品は、読者の数というより、読者の種類において、多層的なものになっていく。ウシジマくん読者のすべてが、コミックをすべて集めて熟読しているわけではないし、毎週スピリッツを買ってすっぴんマスターを読んでいるということもない。新古書店の棚にささる穴ぼこだらけの単行本を立ち読みしているだけかもしれないし、コンビニ店員とたたかいながら月曜の0時スピリッツを立ち読みしているのかもしれない。いや買えよと、個人的にはおもうが、そのことについてはまた別の記事で触れる。ともかく、人気漫画は、いろいろなひとたちが、いろいろな手段で読んでいる。僕にしてからが、いちばん最初にウシジマくんを読んだのは、大学のサークルの部室で、床に広がるゴミにまぎれていたスピリッツを拾ったときだったし、バキも、たぶん新古書店で立ち読みかなんかしたのが最初だったとおもう。最初はそれでもいい。そうするうち、快楽を与えてくれた作者にお返ししなくてはという負債感を抱えるようになって、きちんとしたお金の払い方をするようになる、というはなしはしないのだった。また今度。
ともかく、人気漫画は、必然として、ライトな読者を多く抱えることになる。それはそれで、人気の証明ともいえるし、不可避的なことでもあるから、どちらでもいいのだが、問題、というか僕が気になったのは、その後の合意形成だった。「いろいろなひとが読む」ことによって、読み方の深度にもちがいが出てくるのだが、それでも、不思議と、その作品が「いってみればどういう漫画であるか」という合意形成は、自然と行われていくのである。合意形成ということでわかりやすいのは、グーグルサジェストである。グーグルの検索窓にことばをいれて、必要ならそれについて知りたい別の要素なども加えてみれば、検索候補として、「みんな」がそれについてどうおもっているかということが表示されるのである。
グーグルサジェストはひとつの例で、そうすれば作品の一定の評価について知れる、ということではないが、まとめサイトが乱立する現状を見ても、ひとは検索をかけるとき、ほとんどのばあい、「要するにどういうことか」を知りたがっているということがわかる。それがおそらく原動力となって、世界は、作品の解釈を一点に集中させていこうとするのだ。まとめサイト的問題のもろもろは、ほとんどが、ただの「結果」なのではないだろうか。
この合意形成された解釈を深く掘り下げるのが、批評の仕事である。たとえば、漫画などとは異なる、美術作品など、ある程度知識がないと少しもすごさがわからないような作品においては、玄人目線が欠かせない。そのときにおいてもやはりわたしたちは、「要するにどういうことか」を求めて、検索しないまでも、美術批評の本を読んだりする。創作者はたいてい批評者を厭うものだが、作品がきちんと鑑賞者に届くようになるためには、批評の手続きの細やかさがかなりのぶぶん重要なのである。
【闇金ウシジマくん】
たとえば闇金ウシジマくんはどうだったろう。これはいまでも見られる一般的な読み方だが、実在の事件や人物に取材しているぶん、描写が非常にリアルなこの作品は、一種の現実暴露漫画として読まれることが多いようである。つまり、ふだんの生活で、見かけることはあってもかかわることはない、どうしようもないひとたちを主人公にした展開を通し、裏社会の現実を知り、じぶんの住むこの社会がじっさいにはどのようにして成り立っているのか、知識として獲得するのである。そうして、たいがい、借金のこわさ、そうはならないようにしようという教訓を、読者は獲得することになる。それはそれで、ひとつの見解である。その読み方を否定するつもりはない。だが、それは、この漫画の非常に重要なぶぶんを見落とす読みなのだ。それは、その「どうしようもないひとたち」も同じ人間であり、かたちや大きさはちがっても、それを読んで他人事のようにこわがっているあなたと同じ地獄を抱えているのだ、ということだ。「どうしようもないひとたち」を、じっさいにそうであったとしても、じぶんの人生とはかんけいのない、他人だとする限り、彼らが体感している痛みや理不尽や自業自得を味わうことはできない。たとえば、現在闇金ウシジマくんは最終章に入っており、いままで多くの債務者に地獄を見せてきた丑嶋社長が、なぜか社長にこだわるヤクザたちを通して、わりと痛い目にあっている。丑嶋を、じぶんとはかんけいのない他人と見ているばかりでは、なぜ丑嶋があれほどじぶんのスタイルにこだわるのか、また、登場人物のひとりであるヤクザの滑皮が、なぜあれほど丑嶋にこだわるのか、そういうことが、そもそも問いとしてあらわれてくることすらない。なぜなら、「多くの債務者に地獄を見せてきた」ものは罰を受けてよい悪党に他ならないのであり、彼の痛みなど、知ったことではないからである。これでは、ウシジマくんを継続的に読むことはできないのである。
なぜこういう読みが標準になったのか、むろん、漫画の批評が、文学作品ほど権威的ではないということはあるだろう。批評が権威的になるとろくなことがないので、それはいいのだけど、少なくとも闇金ウシジマくんにかんしては、ちょっと批評が少なすぎると、当時の僕には感じられたのである。
【バキ】
バキにかんしても同様だ。バキの作者の板垣恵介先生は、かなりのぶぶん、即興で作品を描かれる。前もって物語の構成を考えてからシリーズを開始するのではなく、開始させてから、展開を考えておられるのである。たとえば直近の『刃牙道』では、実物の宮本武蔵が復活して、主人公のバキたちとたたかったのだが(バキは格闘漫画です)、これも、たぶん、板垣先生は、「宮本武蔵が復活したらどうなるか?」という問いが生じると同時に連載を開始し、描きながら、「どうなるか」を見ているのである。これは、ジョジョの荒木先生もそうだけど、天才しかできない描きかたなので、まねしないほうがいいのだが、ともかくそういう漫画だから、わりと整合性とかそういうことにかんしてゆるいぶぶんがある。さらにあの画風、「問い」に対して正面から取り組むスタイルである。バキは、真面目に整合性などを考慮して読む漫画ではなく、ありえない展開、へんな描写を笑いながら読む漫画であるという、なんともあさはかな読み方が一般的になっているように、当時の僕にはおもえたのだった。笑いにかんしては正直、現時点でも、さかしらに反論しようという気はない。僕もバキで笑ったことは何度もある。しかしそれは嘲りではないし、バキが整合性に欠ける漫画だともおもわないのである。
【違和感をたずきにする】
だから僕は、ウシジマくんがいかに「人間」を描く漫画であるか、バキがどれだけ豊かな構造に制御された漫画であるか、ずっと示し続けてきた。以上のようなことを書くと、それを書いているひとがいないから、使命感とともにそれを開始した、ととられるかもしれない。じっさい、そういう気持ちがないではなかった。だが、ここではそれを、事後的に別の意味にとらえたい。ウシジマくんが「現実暴露漫画」として読まれているということを受けて、そうじゃない気がする、ウシジマくんはもっと、人間をよく描いた漫画じゃないのかと、僕は考えたわけだが、そのじてんではまだ、その仕組みは看破できていないわけである。バキもそうだ。バキが、整合性に欠けた、スラップスティック的な漫画であるとは、僕にはおもえなかったが、その時点では、バキは背景に論理的な構造を隠している巨大な作品であるとは、断言できなかったわけである。つまり、僕におけるウシジマ批評、バキ批評は、どちらも「違和感」に対する「なんの根拠もない確信」から始まっているのである。そして、もし僕に、ウシジマくんやバキ、それに小説などの批評を書くとき気をつけていること、あるいは、もっとカッコつけて、テクニック的なものがあるとしたら、はっきり、これだけなのだ。
最近よく見られる評価の方法として、「わからない」ことをそのまま低評価に短絡させる、ということがある。常に描写が不足しがちなウシジマくんや、つねに作者が直感で展開させているバキは、じっさい「わからない」ことが多い。どうして登場人物がそんな行動に出たのか、どうしてこんなところでこんな描写があるのか、わからない、そういうことは、たしかにある。そして、わからないから、つまらない。つまらないから、作品として程度が低いと、このような流れで評価を定める方法を、けっこう見かけるのだ。だが、それは僕からすればもったいないはなしである。「わからない」は、考察の糸口なのだ。とにかく、わからないぶぶん、どうも違和感が残るぶぶん、これを見逃さず、がむしゃらにつかまって、ここには重要な意味があると断言してしまう。僕の批評はいつもそうやって始まるのである。
果たしてそれで正しいこたえは見つかるのか、とおもわれるかもしれないが、それはおそらく、作品の読み方をひととおりに、「要するにどういうことか」に回収しようとする思考法が呼ぶ問いだろう。だが僕は、そうすることによって、その作品の真理に導こうとしているのではない。いや、ひとりの論者として、その野心がないといえば嘘になるが、そういうものではないとは考えている。それよりも、とにかくじぶんの考えをまとめて、ひとの目につくところにおいて、より高度な合意形成を待つことが、作品にとってはプラスだろうし、引いては読者のじぶんにとっても幸福なことだろうとおもわれるのだ。
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