胡散臭い男

今日は先日買っていた本を読むため近所の喫茶店に行った。思っていたより混んでいて少しテンションが下がったが、静かな老夫婦の隣が一席空いていたのでそこに座りコーヒーを飲みながら本を開いた。2時間ほど集中して読み進め、いよいよ物語も佳境の残り30ページほどに差し掛かった時、突如隣の席から「女性の社会進出が進んでいないのはね〜」という異様に鼻につく男の声が俺の鼓膜をぶち抜いてきた。少し顔を上げて隣を見ると、いかにも胡散臭い30代後半くらいの男が同い年くらいの女に副業のノウハウを語っていた。続きを読もうと本に目をやったが、その男の声がやたら大きいので集中力を削がれてしまった。もう一度男を見てみた。ワックスを一度に全て使い切ったのかと思うほどガッチガチに固められた髪型と、「ビジネスの基本は表情から」的な自己啓発本で学んだかのような作り笑顔が見れば見るほど胡散臭かった。そしてその男は自身のビジネス経験を武勇伝のように語り、向かいの女はそれに対し終始「〇〇さんが皆に好かれる理由分かります〜」「〇〇さんの言葉本当に勉強になります〜」といった目も当てられない相槌を繰り返していた。ちょっと前まで落ち着いた老夫婦が座っていた隣の席がいつの間にか地獄絵図と化していた。

俺はもういい加減自分の世界に集中しようと本の続きを読み始めた。しかし、隣の席の会話はどんどんヒートアップしていく。
男「僕がこないだ〇〇さんを説得した時あったじゃん、あの時は瞬間的にそう動いた方がいいと判断したんだよ!」
女「そこまで考えられてたんですね〜」
男「僕基本は真面目だけど必要な時は必ず笑いをとりにいくようにしてるんだよね〜」
女「そういう柔軟な対応をしてるイメージあります!すごいです!」
というような、地獄の更に奥底に入り込んでいくような会話が次々と耳に入ってくる。男の声のトーンもさることながら話す内容が聞けば聞くほどしんどくなる。しかも「瞬間的に」とか「必ず笑いを」とか自分のアピールしたい部分に尋常じゃないアクセントをつけて話している。ここまでくるともう笑えてきて俺は本を読むふりをして完全に隣の席の会話に耳を傾けることにした。

男「前の講演会の時にいた〇〇さんはまだ若いから空回りしてる部分もあるけどこれから伸びると思うよ〜」
女「ですね!〇〇さんめっちゃ頑張ってましたもんね!」
男「自分が会いたいなあと思う人と、会いたくないなあと思う人っているでしょ、僕は自分が会いたいと思う人をいつも演じるようにしてるんだよ」
女「たしかに!〇〇さんと喋ったら絶対次も会いたいってなりますもん!」
俺はお前にもう会いたくないけどと思いつつ、そんな感じで男のどうしようもない語りと女のどうしようもない相槌だけが行き交う会話を本を読んでいるふりをして数分間聞いていた。するとその会話の流れの中で男が突然「あれ、雪めっちゃ降ってるじゃん」と言い出した。その瞬間、窓側に背を向けて座っていた俺は反射的に本から顔を上げて窓の外を見た。単純に雪が降っているという情報にびっくりして窓を見たのだが、その男の声に反応してしまったことを少し後悔した。

俺は何事もなかったかのように窓から本に顔を戻し、隣の席の2人もまた会話をし始めた。しかし、さっきと違って男の声が明らかに小さくなっていた。おそらく雪のくだりで俺が窓を見たことで、その男は隣の席の人に自分の話が聞こえてしまっていることに気づき、大幅にボリュームを落としたのだと思う。その時「これで集中して本を最後まで読める」と「もう隣の変な会話が聞けないのか」という不思議と相反する二つの感情が湧いたが、その直後その二つの感情を打ち消すくらいの濃さでその男に対し「いやボリューム落とさなあかんっていう感覚は割と正常なんかい」と思った。さっきまでの武勇伝の内容と語りの勢いを考えると、隣の人に聞こえないように話そうという繊細さはこの男に関しては逆に必要ないものだと思った。隣の席の人に聞こえていようと最後まで大きな声で訳のわからない哲学を語り続けて欲しかった。

その後本を読み終え、店を出ようと席を立った。最後に何気なく隣を見ると男が女に対し「やっぱり僕ってジョニーデップくらい男前じゃん」と言うと、女はお手本のような愛想笑いをしていた。俺は運よく、男がさっき自ら語っていた「必要な時は必ず笑いを取りに行くようにしてる」を実践している瞬間に立ち会うことができた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?