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水戸学と昭和維新運動③

徳川斉昭(烈公)の侍医・本間玄調

 昭和維新運動と水戸学の関係を考える上で欠かせない存在が、頭山満翁の高弟・本間憲一郎である。本間は明治二十二(一八八九)年二月二十四日、古河藩士の父秋田重柔、母本間まさの二男として生まれた。まさの祖父は、徳川斉昭(烈公)の侍医を務めた本間玄調である。
 玄調は、江戸時代末期に全身麻酔による外科手術に成功した華岡青洲の高弟で、青洲の外科学を大成した。『瘍科秘録』などを著している。多くの人の命を救った玄調は、烈公から「救(すくう)」という称号を贈られている。

本間玄調

 憲一郎の甥の本間昭雄氏は家業を継いで医師を目指していたが、二十歳の時に医療事故で失明、視覚障害者の福祉を志し、昭和三十年に聖明福祉協会を設立、昭和四十四年には国内では唯一の盲大学生奨学金制度を設立している(本間昭雄「明治神宮と私」『代々木』平成二十八年夏号)。
 幼年期から憲一郎を兄のように敬愛していた昭雄氏は自ら編んだ『水藩本間家の人びと』に「本間憲一郎略伝」を収めている。そこには、「元来憲一郎は『水戸学』による思想体系を作りあげていたので、その至純な魂と行動は一貫性があり……」と書かれており、憲一郎が水戸学に基づいて昭和維新運動に挺身したことが窺われる。
 本間は茨城県水戸中学校を経て、明治四十四(一九一一)年に東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)支那語科へ入学した。在学中に、陸軍通訳官(支那語)試験に合格し、第一次世界大戦勃発にあたり、同校を三学年で中退、陸軍通訳官として青島守備軍司合部に勤務することになった。

本間憲一郎

 大正五(一九一六)年五月、袁世凱の帝政宣言に反対する第三革命が勃発すると、本間は軍の特務任務に就いた。井上日召、前田虎雄を知ることになったのは、これがきっかけである。しかし、日本政府の方針変更に伴い、本間は特別住務を解任され、急遽大連に起いた。そして、興亜の先覚金子雪斎の振東学舎に入り、塾長としてその事業を助けている。

金子雪斎


 大正八(一九一九)年には頭山満翁の秘書となり、頭山の提唱する日中提携論の実現に奔走した。大正十五(一九二六)年には、桜田義挙・高橋多一郎烈士の子孫の要請で、土浦市の八坂神社で「桜田烈士慰霊祭」が執り行うようになった。昭和三十四(一九五九)年九月に本間が亡くなると、本間の子息で、八坂神社宮司を務める本間隆雄氏がそれを引き継いだ。

本間憲一郎・井上日召・橘孝三郎

 昭和元(一九二六)年頃から本間は、井上日召や橘孝三郎らと水戸に会合し、時局を分析していた。そして、昭和三(一九二八)年十月には郷里新治郡真鍋町に帰り、紫山(しさん)塾を開設する。当時の状況を「本間憲一郎略伝」は次のように記している。
 「その頃の日本の現実の姿は、憲一郎にとつて真に憂慮すべきものがあるとし、これを打破するためには、昭和維新を断行しもつて国論の統一を図り、さらに臣子道により一切を聖上に帰一し、聖旨を奉行せねばならぬという国民の思想涵養を目的に、水戸学講習の場としての紫山塾を開いたものである。開塾当日は頭山満翁、朝日奈知泉などの大先輩をはじめ、その思想に共鳴する多数の同志が参集し、盛況を極めた」
 政界・財界・官界の腐敗が進む一方で、農山漁村の困窮が極まる中で、本間は維新の断行へと邁進していく。
 〈紫山塾頭としての憲一郎は「兵農一体」となつて革新の火を、燃さねばならないとし、旧知の井上日召を盟主とする血盟団に深く同情し、実力行使による現状打破に援助を与えるとともに、他方かねて親交のあつた愛郷塾頭橋孝三郎にも、その行動を支援し、自らもその継続として、昭和七年(一九三二)の五・一五事件に関係したのであつた」

水戸弘道館で開催された「救国懇談会」

 敗戦、GHQによる占領によって、維新陣営は自由に活動できなくなったが、昭和二十七(一九五二)年の「主権回復」後、愛国陣営団結の動きが高まっていく。その際にも、水戸学は重要な精神的支柱になっていたかに見える。
 昭和二十八年六月十三日には、愛国運動の大同団結を目指して、水戸弘道館で「救国懇談会」を開催され、本間憲一郎、橘孝三郎、大川周明、三上卓、中村武彦、片岡駿、影山正治らが参加した。
 『右翼運動要覧 戦後編』(日刊労働通信社編、昭和五十一年)によると、「救国懇談会」は本間・橘のラインで結集が進められていた関東、東北のグループが、勤皇発祥の地、水戸の弘道館において開催したと記されている。このように、「救国懇談会」は水戸学との関わりが深い本間、橘の主導により、水戸学ゆかりの弘道館で開催された。当日の模様を、笠木良明は次のように記している。
 「本間さんの開会の挨拶あり、司会者は青年にといふことに満場一致、本間さんに指名一任、直ちに中村(武彦)、三上(卓)、影山(正治)、塙(五百枝)、小沼(正)の五氏が司会者団として指名される。三上氏挨拶、団を代表して中村武彦君議事進行に当る事となり直ちに懇談にとりかゝる。……懇談会では敗戦の責任、反省、原因の探求に始り、雑多な問題に就いて自由に甲論乙駁が行はれた」
 笠木によると、講演会では、橘が「国家の前途と水戸学の前進」、大川周明が「憲法破棄論」と題して講演した。橘の講演について笠木は次のように振り返る。
 「橋さんは自立安定経済樹立の急務、農は国本である事、米ソ共に日本の掌握に一生懸命である。今は勢力伯仲でも、日本を支配するや否やに依つて二大強国の重さの天秤が天地の如く狂う、而も狙はれて居る日本自体は無自覚千万にも二大強国の何れかへの一辺倒に忘我逆上の醜体を演じて居る。全くの奴隷根性! 貿易に依存する如きは空想である。食糧大増産の計も立つて居るから早急に茨城県下に全力を注ぎ模範地区を打成すべく全国同志の注視と合力を得、一善一切善で又それを続々全国各地に実践せしむる為互助の大勢力を払う決意である等々、其他有益なる体験談、世界的視野よりする政治、経済上の見通しの数々もあつた」(『笠木良明遺芳録』)
 本間は昭和三十四(一九五九)年九月十九日に亡くなっている。歿後五年目となる昭和三十九年十月十九日、東京虎ノ門の船舶倶楽部で「本間憲一郎先生五年祭」が執り行われ、小冊子「本間憲一郎先生の面影を偲ぶ」が参列者に配布されたという。

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