「楠公精神を体現した真木和泉」(湊川神社社報『あゝ楠公さん』、第10号)
楠公の真価を説いた山崎闇斎と水戸義公
すでに、皇學館大學文学部教授の松本丘先生が「『望楠』の系譜─楠公奉祀への一道程」(本誌第九号)において、崎門学派の楠公観に関しては十分に説明されているので、本稿では「今楠公」とまで呼ばれた幕末の志士真木和泉に焦点を当ててみたい。
崎門学の祖山崎闇斎と水戸光圀(義公)は、ともに南朝正統論と忠臣としての楠公の真価を説いた先駆者である。
当初、義公が登用していた学者は、父威公の師でもあった林羅山の系統で占められていたが、やがて学派に関わりなく登用するようになり、延宝六(一六七八)年に闇斎門下の鵜飼練斎が水戸に仕えるようになった。後に水戸に招かれることになる栗山潜鋒は、錬斎の推薦によって後西天皇の皇子尚仁(なおひと)親王の御学友となった。親王は、皇国の本姿回復という理想実現のため御修徳を重ねられていた。元禄元(一六八八)年、潜鋒は親王に『保平綱史』を献上した。後にこれを増補したものが『保建大記(ほうけんたいき)』である。ところが元禄二年八月六日、親王は十九歳の若さで薨去してしまった。
元禄六年に水戸に仕えることになった潜鋒は、藤田幽谷らに強い影響を与えた。平泉澄先生は、「是等の人々を通じて、崎門の精神と水戸学とは互に切磋し、砥礪(しれい)し、相映発し、照応して、正しく国史を見、日本精神を闡明した」と書いている。
義公は早くから楠公を崇敬し、元禄五年十二月には湊川楠子墓碑を建立している。義公以前にも楠公崇拝論は存在したが、いずれも楠公を武将の典型と見ているに過ぎず、楠公の心事に深く思いを寄せてその死の意義を考察しようとするものではなかった。
この中で、柳川藩士の安東省菴が貞享元(一六八四)年に著した『三忠伝』で、楠公を「万世臣子の模範なり」と書いたのは、先駆的な評価である。その執筆のきっかけは、万治四(一六六一)年、長崎に滞在していた朱舜水から、楠公父子の賛を書くように求められたことにあった。
義公が『大日本史』編纂事業に着手した明暦三(一六五七)年、奇しくも闇斎は国史『倭鑑(やまとかがみ)』編纂を志した。『倭鑑』は結局完成を見なかったが、その目録が残されている。そこからは、闇斎が、神代・人代一貫して、中断なく革命がなかったわが国の特色を明示するとともに、南朝正統論を示そうとしていたことが窺われる。
崎門学の大家近藤啓吾先生は、闇斎はこの二点を裏付ける証拠を博捜精思する過程で、楠公の真面目をも次第に明らかにしたと推測されている。この闇斎の楠公に対する思いは、浅見絅斎(けいさい)の門下に引き継がれた。絅斎は忠臣としての楠公の心情を深く理解した。幕末の志士の聖典とまで呼ばれた『靖献遺言(せいけんいげん)』は、絅斎が中国の忠臣八人の絶命の言を収めたものだが、当初の志は楠公をはじめとするわが国の忠臣の言行を収めることにあった。
ただ、儒教的な道徳観に縛られていたためであろうか、絅斎は、楠公が死に急いだことを遺憾としていた。この儒教的な道徳観から脱し、神道に対する修得によって、楠公に対する景仰を強固にしたのが、絅斎の高弟若林強斎であった。強斎は楠公の死は絶望や反抗からの急ぎではなく、自分が斃れようともその魂は継がれという確信に基づくものだったと解した。そして強斎は、忠臣としての目当ては、「カリニモ君ヲ怨ミ奉ルノ心発ラバ、天照大神ノ御名ヲ唱フベシ」という楠公の語以外にないとして、書斎を「望楠」と命名したのである。
平泉先生は、崎門学の神髄について、身をもって君臣の大義を示し、「百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ」と評したが、崎門の実践者たちには、「志半ばで斃れた先覚者の思いは、後生必ず引き継がれる」という確信があった。まさにその確信を支えていたのが、弟の正季と「七生滅賊」を誓い、刺し違えて自刃した楠公の精神にほかならない。
しかも、垂加神道を樹立した闇斎は、「神籬(日守木)は皇統守護の大道、磐境は堅固不壊の心法」との立場を固めていた。闇斎の神道説を受け継いだ強斎は「あの天の神より下し賜はる御賜を、どこまでも忠孝の御玉と守り立て、天の神に復命して八百万神の下座に列り、君上を護り奉り、国家を鎮むる霊神となるに至るまで……」と説いている(『神道大意』)。
この死生を超えて皇統守護に任ずる大和魂は、「死しては忠義の鬼となり、極天皇基を護らん」(『正気歌』)と詠んだ藤田東湖の精神と同一のものである。この精神こそが、わが国本来の姿を取り戻すための維新の原動力となったのである。谷省吾は「明治維新は大和魂によつて動き、大和魂は楠公を仰ぐことによつて振起・鍛錬された」と書いている(「真木和泉守の神道」)。
楠公精神を体現した真木和泉
以下、この楠公精神を体現した真木和泉に焦点を当てて、その心事を体認してみたい。
真木は、文化十(一八一三)年に久留米水天宮祠官、真木旋臣の子として生まれ、若き日に宮原南陸の子桑州に師事した。南陸は絅斎門人の合原窓南に学んだ人である。
郵政大学校副校長を務めた小川常人は、真木の学問には絅斎、強斎の思想が流れていたと推測されると書いている。真木が、絵本楠公記を読み、強く楠公に心服していったのも、若き日に崎門の学にふれていたからであろう。
むろん、真木の学問の中心をなしたものは水戸学である。弘化元(一八四四)年に水戸遊学を許され、真木は四度にわたり会沢正志斎を訪ねている。真木は弘化四(一八四七)年五月二十五日から毎年楠公祭を営み、喀血した時も止めようとはしなかった。
その十三年前の天保五(一八三四)年、正志斎は国民が祀るべき祭日を挙げ、その意義を解説した『草偃和言(そうえんわげん)』を著していた。そこで楠公湊川戦死の日である「五月二十五日」を挙げ、次のように書いていたのである。
「楠氏の子孫、宗族、正行、正家、正朝、正高等を始として、相踵(つぎ)て義に死し、命を塵芥(じんかい)よりも軽くして、忠烈の気、天地に塞る……されば貴賤となく、此日に遇うては、殊に同志の友をも求めて、相共に義を励し、其身の時所位に隨て、国家に忠を尽さん事を、談論思慮して、風教の万一を助け奉るべき也」
真木が楠公祭を開始した直接的な理由は、この正志斎の言葉にあったのかもしれない。
彼は、嘉永五(一八五二)年に久留米藩の藩政改革を企てて失敗、謫居を命じられた。その場所が久留米郊外の水田天満宮の神官である実弟大鳥居啓太方の住居山梔窩だった。ここで真木は自らの思想を練り、やがて平野国臣らの志士と討幕の方策を検討するようになる。安政五(一八五八)年には、討幕の戦略書として『大夢記』を著し、文久元(一八六一)年十二月には、討幕の具体策として『義挙三策』を書き上げている。
その三カ月前、真木が遺書として書いたのが、「何傷録(かしょうろく)」である。冒頭に「楠子論」を掲げ、さらに「楠子の一族、三世数十人、一人の余りなく大義に殉死せられしこと、大楠公の只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは、塵ほども胸中に雑らず」と、楠公精神を称えた。そして、十年の謫居を余儀なくされ行動できなかった自らの心情を吐露し、今や身を挺する覚悟を綴り、次のように一族に訴えかけたのである。
ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ
常に「櫻井の決別」を期していた真木は、楠公祭に一家一族を出席させ「たらちねの父を恨むることあらば 楠の木蔭の草つみて見よ」と、口誦さんでいた。楠公一族を慕う真木の魂は、その家族の心に浸みわたっていたのである。
文久二(一八六二)年二月十二日、ついに山梔窩脱出を決意した真木は、十年ぶりに再会した妻睦子、娘小棹と永別の面会をした。このとき、小棹がはなむけに詠みあげたのが、次の一首である。
あづさ弓 春はきにけり ますらをの
花のさかりと 世はなりにけり
二月十六日、水田を脱出した真木は、薩摩を経て四月二十一日に大阪に入った。そこで彼は、有馬新七、田中河内介らとともに佐幕派の関白九条尚忠、所司代酒井忠義殺害の計画を立てる。
有馬も真木と同じように楠公精神に殉じようとしていた。有馬はわずか十四歳にして崎門学を学び始め、天保十四(一八四三)年には江戸に下って崎門派の山口菅山の門で学んでいる。この時代に彼は、室鳩巣の楠公論を激烈に批判した『楠公論廼弁』を著している。
真木らは酒井忠義殺害を企てたものの、計画が事前に発覚、寺田屋の変で有馬は斃れ、真木は久留米に護送され、再び幽囚されてしまった。このとき真木の赦免を働きかけたのが、尊攘派公卿の中山忠光、長州藩毛利公、久留米藩から津和野藩を襲いだ亀井茲監らであった。
身をもって完成した楠子論
文久三年二月、真木は赦免された。この頃から長州藩を中心とする尊皇攘夷派の勢いが強まっていく。各地の尊攘派志士が京都に集結、朝廷内においても三条実美らの力が強まった。六月になると、真木は学習院に出仕するようになり、朝廷に影響力を持つようになった。
こうして、尊攘派は天皇による攘夷親征の実行(大和行幸)を企て、八月十三日に大和行幸の詔が発せられた。これに危機感を抱いた薩摩藩・会津藩を中心とする公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝議を覆し、長州藩と尊攘派公卿を朝廷から追放したのである。これが、「八月十八日の政変」である。真木は、七卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、沢宣嘉、錦小路頼徳)と共に長州へ逃れた。八月十九日に京都を脱出、二十一日に湊川に立ち寄り、楠公の墓前に額ずき勤皇の誠意を訴えている。そして、二十七日に周防三田尻のお茶屋の一角「招賢閣」に入った。
招賢閣を拠点とした真木は、文久三年十月、『出師三策』を著して、武力による朝廷奪回を主張した。翌元治元(一八六四)年一月三日、真木は尊攘派志士に対して「三田尻招賢閣掲示」で日課を示し、栗山潜鋒『保建大記』、浅見絅斎『靖献遺言』、会沢正志斎『新論』の講習を命じている。同年五月二十五日の楠公の命日には、三条と東久世の申し合わせによって、山口市郊外湯田の高田館で楠公祭が執行され、真木、久坂玄瑞らも参会している。
同年七月、真木は、久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加した。弟の外記は忠勇隊隊長となり、四男菊四郎もまた従軍した。
ただ、勅命によって入京を禁じられている真木が挙兵上京を策することは、謀反となる危険性があった。しかし、真木は、弘化三(一八四六)年に初めて海防厳戒の勅が幕府に下されて以来、大和行幸の発令に到るまで、孝明天皇のご意志は常に攘夷にあったはずだと信じていた。そして、八月十八日以後の勅令は、中川宮を中心に会津・長州両藩が天皇の真の意志を遮り、矯めた結果なのであり、一刻も早く君側の奸を払わなければならないと考えた。
小川常人は、真木が謀反と呼ばれるのを免れないと考えたからこそ、自らの信ずる尊皇の行為に対する正邪の弁別を後世の歴史に待つべく、上京前すでに死を覚悟し、「躊躇なき見事な死を以て己の志操を立証」しようとしたと書いている。
七月十九日、ついに真木らは堺町御門を目指して進軍した。しかし、福井藩兵などに阻まれて敗北(禁門の変)、久坂と来島は自決した。
真木は、天王山へ退却したものの、長州へ敗走することを拒否し、七月二十一日、同志十六名とともに自刃、天王山の露と消えたのである。弟の啓太、加賀、外記、子の主馬、菊四郎、そして甥の大鳥居次郎ら、真木一族の男子は、楠氏一族のように挙って維新の大業に殉じようとした。天朝に命を捧げることが、真木一族全体の志だったのである。
小川は、「かくの如く一家一門子弟に至るまで偉大な一つの志に結集し、揃つて難に向つて進んだ有様は他に殆んど類例のない見事なもので確かに楠氏一族の活躍を幕末に復活したものと申すべきであらう」と評している。
真木の天王山自刃の連絡に接した娘小棹は、けなげにも「とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく……」と口にした。
平泉門下の鳥巣通明は、「和泉守が、楠公に仰ぎ見たのは、その赫々たる勲功よりは、むしろその至純の忠誠であり、事の成敗を超越し、一族をあげて皇統護持の業に殉じて、毫もかへりみなかつた点であつた」ととらえ、この小棹の言葉によって、真木が身をもって書こうと願った楠子論は、見事に完成したのだと称えている。
維新の原動力となった楠公精神
真木の辞世は「大山の峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂」。
ここには、自分はここで戦死するが、自分の年来養ってきた大和魂はここに埋めて置く。この魂はいつまでも朽ちることなく、必ずそれを継ぐ者が出てほしい、という真木の願いが込められている。
楠公精神に殉じた真木の精神は、藤田東湖の正気歌の精神と同一のものである。東湖はこれより先、安政二(一八五五)年十月、大地震の犠牲となっている。しかし、門人たちは東湖の精神を脈々と受け継いでいた。その一人が薩摩藩士の折田要蔵である。彼は、文久三(一八六三)年十一月、島津久光に付き添って上京した折、楠社創建を建白している。これを受け、久光は元治元(一八六四)年二月、薩摩藩京都留守居役の内田仲之助を通して、摂津国八部郡に南朝忠臣らを合祀した神社を建てる事を建白した。
『明治天皇紀』によると、維新後の明治元年十月二十日、若き明治天皇は、東久世通禧の奉仕によって、『保建大記』と『神皇正統記』の輪読をされている。維新の原動力となった思想が、ここに君徳涵養のために用いられたのである。
湊川神社の創建が命じられたのは、同年四月のことである。楠公を祀る神社建設地は、尾張藩の建言を受け、京都にほぼ決まっていたとされている。これを覆し、湊川に神社を創設することを維新政府に決定させたのが、当時兵庫鎮台総督の立場にあった通禧であった。
そして、明治三年五月二十五日、通禧は三条実美、三条西季知らとともに楠公祭を執行している。明治初年における楠公に対する崇敬感謝の熱さは、楠公精神が明治維新の原動力となった事実をはっきりと示している。