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坪内隆彦「新右翼と『新勢力』─維新の戦闘者・毛呂清輝」(『維新と興亜』令和5年5月号)

今の愛国団体は〝売国政党〟の院外団だ


 『現代の眼』昭和五十一(一九七六)年二月号に掲載された、鈴木邦男と野村秋介の対談「反共右翼からの脱却」は、反共右翼と一線を画した新右翼の台頭を強く印象付けた。「新右翼を作った対談」とも評価されている。ここで野村は、「『安保廃棄』ということをはっきりと打ち出すべきだと思うんですよ」と語ったのである。
 しかし、この対談に遡ること十六年、昭和三十五(一九六〇)年夏に、戦前から昭和維新運動に挺身してきた三上卓、影山正治、毛呂清輝による鼎談が行われた。ここで、毛呂は次のように戦後右翼の在り方を厳しく批判していたのである。
 「戦後、いわゆる右翼団体というものが復活し、その団体の数も随分沢山あるようですが、維新運動とか維新陣営という名に値するようなものは未だ再建されていないと思うのです。……いつか、『新日本』の阿部源基氏(元警視総監)が昔は〝革新陣営〟といえば、〝愛国陣営のことを指した〟と云つていましたが今の愛国団体は、共産党のいう〝売国政党〟の院外団みたいな立場におかれて、一つの自主的立場を失つているように思うのです」
 「維新運動の本流をさぐる」と題されたこの鼎談を掲載した雑誌こそ、毛呂が自ら主宰していた『新勢力』である。
 鈴木がこの鼎談を特に重視していたことは、平成二十七(二〇一五)年に彼が編んだ『BEKIRAの淵から 証言・昭和維新運動』にこの鼎談を収めたことからも窺える。
 毛呂は、この鼎談以降も右翼陣営に対するメッセージを送り続けた。例えば、昭和四十四(一九六九)年四月には、「わが悲懐」と題して〈日本人の原型である右翼は日本の「独立」を主張する前に独自の立場を鮮明にし、自民党の院外団的性格から脱皮しろ〉と持論を繰り返している。

鈴木邦男を育てた毛呂清輝


 鈴木は毛呂から思想的な影響を受けただけではなく、運動面でも毛呂から大きな支援を受けていた。鈴木は、昭和四十七(一九七二)に一水会を旗揚げしたが、当時十分な資金がなくて困っていた。当時のことを鈴木はこう振り返る。
 〈一水会を作ってすぐは事務所を借りる金もないし、毛呂先生の「新勢力社」に机を一つ借りて事務所にした。タダで使わせてくれた。電話もそうだ。さらに原稿を書いて原稿料をもらった。他の先生方の雑誌にも書かせてもらい原稿料をもらった。お世話になりっ放しだ〉
 毛呂はまた、新勢力社があった飯田橋の居酒屋で、酒を飲みながら鈴木を励ましたという。鈴木は〈『新勢力』という格調の高い理論誌に書けるというので、我々は拙ないながら必死に勉強して書いた。民族派の勉強をするということ、原稿を書くということ、自分の考えをどう他人に訴えてゆくか……それらの全てを『新勢力』で習い、教えられたような気がする〉とも書いている(鈴木邦男「毛呂先生の叱正」)。
 鈴木の言論活動に注目していた毛呂は、予てから野村秋介を鈴木に紹介しようと考えていた。その機会は、野村の出所まもなくの昭和五十(一九七五)年五月に訪れる。上野精養軒で開催された『新勢力』の二十周年記念大会の席上で、毛呂は鈴木に野村を紹介したのである。

神兵隊が新右翼を作った

 言論人としての毛呂の活躍は、維新運動に挺身した戦前の体験に支えられていた。
 大正二(一九一三)年七月四日、京都府与謝郡岩瀧町字男山(現与謝野町男山)で生まれた毛呂は、京都府立宮津中学校を卒業後、昭和五(一九三〇)年國學院大学に入学した。弁論部に入り、同部の部長を務めていた日本主議の哲学者・松永材教授の指導を受けることになる。毛呂は『浪人道とニヒリズム』で次のように振り返っている。
 「この弁論部が運命の糸だった。部長が松永先生。そして幹部にアジテーター影山正治がいた。事実当時の彼は颯爽として、左翼の斗士以上に魅力的だった。彼の演説は隣りの実践女学校の生徒もききにきた程だった」
 國學院に入学した影山にとって、「とうとうたるマルクス主義全盛の世相下にあって、あらゆる悪評を覚悟の上で、毅然として立つ日本主義陣営の若き理論的指導者としての松永教授」こそが大きな魅力だったのである。影山や毛呂は、そんな松永の思想的影響を受け、維新運動へとのめり込んでいった。毛呂は影山を介して内田良平の「大日本生産党」に入り、さらに津久井竜雄氏の「大日本青年同盟」にも関わるようになる。
 昭和八(一九三三)年七月、毛呂は神兵隊事件に連座することになる。神兵隊指導者の一人天野辰夫は、古事記、日本書紀の研究に基づいて皇道原理を前面に打ち出した維新を目指していた。天野は前田虎雄ら愛国勤労党の急進派、鈴木善一ら大日本生産党系の維新派とともに、昭和皇道維新の断行を目指して神兵隊事件を企てたのである。神兵隊の志は高く評価された。例えば、鹿子木員信は、神兵隊事件において初めて純乎として純なる皇国の国体原理に基づく、日本的な維新が企図されたと評価している。
 神兵隊事件は、首相官邸で閣議が開かれている時刻を見はからい、海軍第二航空隊司令・山口三郎中佐の指揮する海軍機が官邸と警視庁を爆撃して閣僚を斃すとともに、地上部隊は重臣、政党首領、財閥首脳などを暗殺する計画を立てていた。治安の混乱に乗じて政権を倒し、それによって天皇政治を確立しようとしたのである。東久邇宮殿下に出馬を願い、一挙に維新内閣を樹立する計画だった。しかし、決行寸前に発覚し、二百人余りが検挙され、五十四人が起訴された。
 毛呂は昭和十年暮に保釈されて出所、一且奥丹後の父母の膝下に帰った。昭和十一(一九三六)年、神兵隊は天野派と前田派に分裂し、毛呂は片岡駿、中村武彦ととともに天野を支持、「告り直し」と称して神兵隊の新たな発足を宣言した。実動機関として片岡らが昭和十二年七月に設立したのが維新公論社である。毛呂は維新公論社に入り、月刊『維新公論』の編集に携わることになった。こうして、毛呂は雑誌編集を経験することになる。
 前もって言えば、神兵隊事件関係者は、戦後の右翼運動をリードすることになる。鈴木は、〈戦前の良質な右翼思想家のほとんどがかかわつたのが「神兵隊事件」だ。……僕らはこの先生方の指導を受け、大きな影響も受けた。だから、「神兵隊が新右翼を作った」といえるかもしれない〉と書いている(『右翼は言論の敵か』)。
 実際、神兵隊事件関係者の多くが戦後右翼運動のリーダー的存在になっている。「新勢力社」を率いた毛呂のほか、「青年講座」の白井為雄、「大東塾」の影山正治、「全有連」の片岡駿、「救国国民総連合」の中村武彦などだ。

王道アジア主義者・毛呂清輝


 毛呂は、維新運動と同時に興亜運動に挺身していた。昭和十二年十一月には、青年亜細亜同盟が発足し、毛呂は神兵隊の永代秀之や興亜運動に挺身してきた田中正明らとともに参加している。
 毛呂は、アジア諸民族の解放を切望するとともに、アジア人を侮蔑する欧米に果敢に挑もうとした。当時、日本国内においても、「ガンガディン」や「ベンガルの槍騎兵」など、インド民衆を侮蔑し、インド兵の反乱を鎮圧する英軍の行動を称え、イギリスのインド統治を正当化する映画が上映されていた。
 毛呂はインドの留学生や日本の青年とともに、築地の松竹本社の洋画配給部にのり込み。再三にわたり抗議をくり返した。さらに、松竹社長や陸軍の報道班や外務省などを説得し、ついに日本での上映を禁止させたのである(田中正明「『青年亜細亜同盟』の思い出」)。
 アジア主義者たちは、インドだけではなく東南アジアの民族主義者たちも支援していた。後に『新勢力』を舞台に活躍する葦津珍彦もその一人だった。
 葦津は、日本に亡命していたフィリピンの民族主義者ベニグノ・ラモスと直接接触し、フィリピン独立を支援しようとしていた。ところが、昭和十年にアメリカに配慮する外務省親米派は、日本に亡命していたラモスを国外退去させようとした。この時、葦津は「比律賓独立戦争と我徒の態度─独立派志士を米国官憲に渡すな」と題した声明文を広田弘毅外相に渡し、「国外退去させぬ」と確約させたのである。
 わが国の維新陣営を頼ったラモスは、維新寮(後の大東塾)を訪れ、影山正治、毛呂清輝、中村武彦らとも面会していた。やがて、こうした興亜運動の体験は『新勢力』の言論に活かされることになる。
 つまり、毛呂らの動きは西郷南洲を源流とする王道アジア主義につらなるものであり、覇道に陥る政府に対しては批判的なものだった。毛呂は、東条政権に抵抗する石原莞爾のグループも支援していた。
 読売新聞の政治記者を経て、石原莞爾に心酔し、東亜連盟運動に共鳴した神田孝一は、東亜連盟運動に挺身する若者たちを育成するため、故郷の会津若松から純真な青年たちを集め、高尾山麓に「浅川塾」を開設した。当然、東條が警戒した「浅川塾」に対しては特高の目が光っていた。この時、山口重次、武田邦太郎、小島玄之らとともに、「浅川塾」を支援し、東条政権の弾圧を撥ね退けたのが、毛呂だったのである(市倉徳三郎「痛恨 毛呂君の死」)。
 後に毛呂は、「日本がアジアに対して犯した侵略的な面と純粋にアジア共栄のために尽した面とがミックスして戦争は進展したが、確かにその良き種も蒔かれているのである。日本人の悪い癖は事大主義である。そして拝外主義と排外主義が背中合せになっている」と指摘している(『浪人道とニヒリズム』)。

『新勢力』の看板となった葦津珍彦


 昭和三十一(一九五六)年、毛呂は中村武彦、小島玄之らともに設立した「民族問題研究所」から『新勢力』を刊行した。翌昭和三十二年十一月には自ら新勢力社を設立し、『新勢力』を同社の刊行物として発行することにした。既存の商業雑誌が戦後体制の枠の中での言論活動しか展開できないのとは対照的に、『新勢力』は昭和維新の精神を伝えるべく、堂々たる主張を展開し保守陣営に覚醒を促した。
 『新勢力』は維新運動に関わる人物や事件の特集として、大川周明特集(昭和三十三年十一月)、神兵隊事件三十年特集(同三十八年)、高畠素之の思想と人間(同四十四年十月)、松永材先生追慕号(同四十四年十月)、三上卓追悼号(同四十七年二月)などを組んだ。
 こうした中で、『新勢力』の看板となり、多くの読者を獲得したのが葦津珍彦である。実は、葦津に毛呂を紹介したのは三上卓だった。葦津は次のように振り返っている。
 〈かれ(毛呂)を私のところに同行して来てくれたのは、故三上卓兄であった。……三上兄は寡黙の人だが英敏の質があった。「この男(葦津)に理論を聞かせてもダメだよ。なんでもいいから、この雑誌に書いてくれ。原稿料は持たないらしいから、自分で印刷したいやうな文を書いて、雑誌を二百でも三百でも持って行くやうにしてくれ」と、三上兄が要領をきっぱり結論づけて帰った〉
 葦津の著作は保守論壇の注目を浴びたが、その多くが『新勢力』に掲載された原稿がもとになっている。 戦後の民族派が親米に傾斜する中で、王道アジア主義に関わる葦津の論稿は強い光を放っていた。例えば、自らの興亜運動の体験に基づいて書いた「比島独立革命戦士 B・R・ラモス小伝」(昭和四十六年四月号)である。
 鈴木邦男はこうした論稿から強い影響を受けていたに違いない。彼は昭和四十九(一九七四)年六月に『新勢力』に寄稿し、「我々は、玄洋社・黒龍会の、そして、血盟団、五・一五、二・二六といった国家革新運動の伝統をついでゆくのであると思う」と述べている。鈴木は戦前の維新運動の継承を志したのである。
 野村秋介は、「新右翼」ではなく「真右翼」と称したが、「新右翼」の本質は維新を志した正統右翼の継承にあったと言えるのではなかろうか。その意味で、正統右翼の思想と行動を伝え続けた『新勢力』の果たした役割は極めて大きいが、このような雑誌を刊行し続けることは容易ではなかったに違いない。
 戦前、直接行動に訴えようした毛呂は、戦後は言論活動とともに、後進の育成を自らの任務と定めたように見える。しかし、半世紀近くに及ぶ維新の戦いを続けてきた毛呂も、ついに力尽きた。昭和五十三(一九七八)年十二月十九日、六十六年の人生の幕を閉じた。翌昭和五十四年四月、『新勢力』は「毛呂清輝追悼号」を編んだ。盟友の片岡駿は、次のような追悼の言葉を残している。
 〈一切の営利栄達と世の常の歓びを求めず、ただ戦はんがためにのみ生きる維新の戦闘者にとって、貧困と孤独と試練はこれを避けることの出来ない宿命だ。さうした維新者の日日不断の生活において、若しその貧困や孤独や試練を克服し、没却せしめ得るほどの歓びがあるとすれば、それは『血盟の義』と『骨肉の情』を共に相備へた、文字通りの肝胆相照らす友のみである。私にとってさうした友が誰であったかは誰よりもよく君が知ってゐる筈だ。……日日不断に誓ひを固め心を寄せ合ひ、歓びも悲しみもみな互ひに頒ち合ふことの出来る戦友となってこそ、それがまことの維新の友であると云ふのが、君が平生の所信であった。そして君はそれを二十代の青年期から死ぬるまで一貫して実行した。生涯に亘る君の貧乏の原因がそこに在ることは、君を知るほどの人はみな知ってゐる。君が生前、身に着けたものは首から足の先まで凡て友人や先輩からの貰ひもので、躰にピッタリのものは一つも無かったが、私はそれを見る度に君の心の清々しさを感じ、またますらをの意気を感じた〉 (敬称略)


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