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わが国独自の民主主義思想としての水戸学

国体の尊厳を支える蒼生安寧


 戦後、水戸学の国体思想は、「日本軍国主義」を支えた危険思想として否定的に評価されてきた。しかし、水戸学の国体思想は、わが国独自の民主主義思想だったのではないか。
 水戸学が理想としたわが国の統治とは、天皇が仁愛によって民を治め、敬虔によって神に仕え、大御心を国全体に広げる君民一体の政治だ。わが国は、領土領民を私的に支配する覇道的支配(主人履(ウシハ)く=ウシハク)とは本質的に異なる「シラス」による統治を理想としてきた。今泉定助は「シラス」による統治を、「国土国民を親が子に対するように、慈愛の極をもって包容同化し、各処を得しめ給う統治」と説明している。
 国民の家々から炊飯の煙が立ちのぼらない状況を見て課役を免じ、自らに倹約と耐乏を課した仁徳天皇の治世に代表されるように、天皇政治のもとで国民は大御宝として尊ばれてきた。筆者は、『新論』「国体上」の次の言葉にまず注目する。
 〈天祖嘉穀(かこく)の種を得て以為(おもへ)らく、以て蒼生(そうせい)を生活すべしと。乃ちこれを御田(みた)に種(う)ゑ給ふ。又口に繭を含んで始めて蚕を養ふの道あり。これを万民衣食の原(もと)となす。天下を皇孫に伝ふるに及んで、特に授くるに斎庭(ゆには)の穂を以てす。民命を重んじ、嘉穀を貴ぶ所以のもの、亦見つべきなり〉(古代日本では、天祖は嘉(よ)き米の種を得て、「これにより、国民生活に資することができる」と信じ、それを田に植え、また口づから繭を含んで、養蚕の道を起された。それによると、万民が衣食してゆく道の土台もアマテラス・オオミカミが案出されたのである。その後、天下を皇孫(すめみま)に伝えるに及び、特にこれに授けるのに祭場に用いる稲をもってせられたのを見ると、いかにその御心の上において、万民の生活上の事を重大視せられたかがよくわかる)
 藤田東湖は、弘化三(一八四六)年に著した『弘道館記述義』で、「天祖、始めて種穀・養蚕の道を開きたまひ、民、ここに於てか衣食す」と、右の『新論』の言葉を繰り返している。その上で、東湖は〈上古、人民を指して「於保美多訶良(おほみたから)」と曰(い)ふ。「於保(おほ)」は大なり、「美(み)」は御なり、「多訶良(たから)」は宝なり。その生霊(人民)を重んずる所以は、至れりと謂ふべし〉と述べている。
 蒼生(国民)の生活を最優先する後期水戸学の国体思想は、藤田幽谷に始まる。幽谷は『新論』に四半世紀先立つ寛政十一(一七九九)年に『勧農或問(かんのうわくもん)』を著している。その冒頭の言葉こそ「民は邦の本」である。幽谷は文字通り「民本」の思想を前面に掲げ、農民の生活を安定させるための具体的施策を説いて見せたのである。『新論』「国体 下」で展開される議論は、この幽谷の思想を発展させたものと考えられる。
 幽谷が「民本」を押し出す上で、水戸光圀(義公)が行った政治は重大な意味を持っていた。義公は水戸藩でシラスの統治を実践しようとしたのではなかろうか。義公の愛民の政治の事例については、名越時正が『水戸光圀』において「慈悲の政治」の一章を設けて詳しく紹介している。
 一例を挙げれば、天和二(一六八三)年に義公は藍・紙・鮭・鮎・鱒などの浮役(うきやく)(臨時の不定額の雑税)免除を決断している。貞享三(一六八六)年には、困窮した農民、町人に藩から拝借金を出し、利息一割で貸し付けて支援しようとした。さらに翌貞享四年には、領内巡視に出かけ、領民困窮の原因が、貨幣経済の浸透と金融業者の暴利にあることをつきとめた。これに対処するため、義公は田畠の売買を禁じ、他所への参詣・巡礼を止めさせたのである。
 幽谷は、義公のこうした政策を「扶弱抑強」の徳政と名づけ、「有難き仁政、真に英雄の挙」と賞讃している。
 水戸学以前にも、『古事記』『日本書紀』が示す古代日本の姿に国体の理想を読み取る試みは脈々と続けられてきたが、誇るべき国体が「蒼生安寧=シラス=民主主義」にあることを明確に説いたのが後期水戸学であった。『弘道館記述義』には、次のように書かれている。
 「蓋(けだ)し蒼生安寧、ここを以て宝祚無窮(ほうそむきゅう)なり。宝祚無窮、ここを以て国体尊厳なり。国体尊厳、ここを以て蛮夷戎狄(ばんいじゅう てき)卒服す。四者、循環して一のごとく、おのおの相須(ま)ちて美を済(な)す」(思うに人民が安らかに生を送るがために皇位は無窮であり、皇位が無窮であるがために國體は尊厳、國體が尊厳であるがために四方の異民族は服従する。この四者は循環して一つとなり、それぞれ相互に関連してみごとな一体をなしている、橋川文三訳)と書かれている。
 「皇位は無窮」を支える「蒼生安寧」こそが、「國體は尊厳」の内実を示しているのである。水戸学国体思想は、「蒼生安寧=シラス=民主主義」を高らかに宣言したのである。
 

王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥ける


 『新論』は、幕府政治、武家政治を次のように厳しく批判している。
 「源頼朝が総追捕使(そうついぶし)となるに及び、土地・人民を挙げて、悉く鎌倉幕府に帰せしめ、政治上の実権を握るに至った。思うに、鎌倉幕府も、そのあとに取って代った室町幕府も、その執政期間において、一盛・一衰同じからざるものがあるけれども、概(おおむ)ね土地・人民の権によって、朝廷の命令に逆い、恭順の態度をとらぬ点は同じだ」
 これは、明確な尊皇斥覇(せきは)(王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥(しりぞ)ける)の思想といっていい。覇者による統治、ウシハクの統治は、「蒼生安寧=民主主義」に反するがゆえに、斥けなければならないのである。
 わが国においては、覇者による統治は幕府政治、武家政治において典型的に示されてきた。明治維新の本義とは、鎌倉幕府以来、七百年に及んだ「覇者=幕府」による政治に終止符を打ち、「蒼生安寧=シラス=民主主義」を回復したことにある。それは肇国の理想への原点回帰でもあった。
 近世において尊皇斥覇の思想を明確に説いたのは、山崎闇斎(あんさい)を祖とする崎門学(きもんがく)である。闇斎は会津藩主・保科正之に仕えていたが、寛文十二(一六七二)年に保科が死去すると、会津藩の俸を辞し、天和二(一六八二)年に亡くなるまで京の地を一歩も出なかった。闇斎の高弟・浅見絅斎(けいさい)もまた、「予は既に終身足関東の地を踏まず、食を求めて大名に事(つか)えずと誓えり。出処進退の事において、毫末も世に耻(は)づる所なし」と語り、諸侯からの招聘を断り、生涯京を離れることはなかった。
 一方、闇斎門下の桑名松雲に師事した栗山潜鋒(せんぽう)は、『保建大記(ほうけんたいき)』(一六八八年)で、頼朝を次のように厳しく批判していた。
 「様々の手立てで巧みに偽り、後白河法皇を束縛して我がままに馳せ駆け、日本国の総追捕使になって天下の兵馬の権を一人占めし、天子の威儀を真似し、かくのごとくして天下後世まで、武断政治でなければならないと人々に思わせ、天子の名分に基く徳治政治のあることを知らせない様にした」(折本龍則氏訳)
 潜鋒こそ、崎門学の国体思想を水戸学に注入した中心人物であった。潜鋒は元禄五(一六九二)年に、義公に招かれ学官となり、元禄十年に二十八歳の若さで彰考館総裁に就き、『大日本史』編集に従事した。
 一方、絅斎に師事した後、木下順庵の門に入った三宅観瀾は、潜鋒の推薦で水戸藩に仕えるようになり、『大日本史』編纂に従事したが、彼は宝永六(一七〇九)に草した「将軍伝私議」で、鎌倉・室町幕府の将軍たちが皇威を凌ぐような不遜な態度をとったことを厳しく批判していた。
 尊皇斥覇の思想は、絅斎の高弟・若林強斎の言葉にも窺われる。正徳五(一七一五)年、門人の問いに応えて強斎は「王室は衰弱し、諸侯は強盛となりて、天下に君が存在しないようだ」と嘆いていたのだ。
 宝暦八(一七五八)年の宝暦事件で京都を追放された崎門学派の竹内式部(たけのうちしきぶ)もまた、「我が国には天皇ほど貴いお方はいないのに、将軍あるを知って天皇あるを知らないのはどうしたことか」と語っていた。さらに、明和四(一七六七)年の明和事件で処刑された、崎門学派の山県大弐もまた、『柳子(りゅうし)新論』で次のように尊皇斥覇の思想を明確にしていた。
 「保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(西田太一郎訳)
 

水戸の限界を乗り越えた藤田幽谷の『正名論』


 水戸学の尊皇斥覇論には、崎門学派と比較すると不徹底な部分もあった。例えば、正志斎は『新論』において徳川幕府を直接批判することはなかった。むしろ、徳川幕府に対しては迎合的であり、「東照宮(徳川家康)は……専ら忠孝の道を基本として、教化を四方に布き、とうとう二百年太平の業を成就した」といった記述もある。
 徳川御三家の一つである水戸藩が、徳川幕府への忠義を捨て去ることは容易ではなかったのだ。何より幕府を公然と批判することは困難な時代だった。水戸藩は建前としての「尊皇敬幕」の姿勢は崩せなかったのだ。しかし「本音」は別のところにあった。名越時正は次のように指摘する。
 「遺憾ながら、又当然のことながら、光圀自身の武家政治批判や幕府否定の思想を文辞の中に捉へて明証とすることは難かしい。だからと云つて光圀自身及び前期水戸学派の尊王論に反幕的思想なしとか、幕府強化のための尊王論に過ぎぬとかいふことは、文字にとらはれた浅薄な判断に過ぎない。光圀の思想は深遠であつた。もし言動の上に、幕府否定的なものを表はして居たら、水戸家は早く存在を失つて居たであらう」
 それでも、義公の言動には尊皇斥覇の思想が窺われる。義公の言行録『桃源遺事(とうげんいじ)』には、「我々が御主君と仰ぐのは、京都の天子=天皇です。現今(江戸時代)の将軍は我々の親戚頭です。自分(光圀)は天皇の臣下であって将軍家の家臣ではありません。将軍家に対しては、親戚頭として敬意を表すべきです」とある。
 また、義公が元禄三(一六九〇)年十一月に、藩主を綱條(つなえだ)(粛公)に譲り、水戸へ帰国する際、綱條に与えた詩の末尾には「古謂ふ君以て君たらずと雖も。臣臣たらざる可からず」とある。やがて、水戸藩第六代藩主・治保(はるもり)(文公)は、安永七(一七七八)年に、この義公の一句を楷書で浄写し、奥書を記し表装した。そこには、義公の一句を家訓として常に戒となし、子孫に守らせたいと記されている。名越時正は、この一句にある絶対の忠が「朝廷と幕府との間に、万一どのやうな不祥な事態が起らうとも、我が主君たる天皇には絶対随順の至誠を尽すべし、といふ重大な意味を有することを感得した文公が、やがてこれを長子武公に伝へたに相違ない」と述べている(『水戸學の達成と展開』)。
 『大日本史』編纂や「嗚呼忠臣楠子之墓」建立などの功績も合わせ、義公の言動を見れば、そこに尊皇斥覇の思想を読み取ることは可能なのではないか。少なくとも、幽谷は義公の思想に尊皇斥覇を読み取り、自らそれを継承しようと志したのである。
 寛政二(一七九〇)年、幽谷は、江戸に行くことになった友人の原子簡に宛てて、「我が西山先公(義公)……慷然として大日本史を修め、上は皇統の正閏(せいじゅん)を議し、下は人民の賢否を弁じ、帝室を尊んで以て覇府を賤しめ、天朝を内にして以て蕃国を外にす」と書いていた。そして幽谷は、『新論』が成る三十四年前の寛政三(一七九一)年に著した『正名論』において、次のように書いたのである。
 「鎌倉幕府が開かれますと、兵馬の権は武家に移り(覇者と位置付けてゐる)、室町幕府に至つては幕府を京都に、乃ち皇居の近くに置き、覇者として天下に号令しました。国民の生殺与奪の権は全くその手に帰し、朝廷の威を借りて高位高官に陞(のぼ)り、傲然(ごうぜん)として公卿達を顎で使ひました。摂政も関白も名のみとなつて、公方(室町将軍)の右に出る者はなく、まさに武士が大君となつたようなものでありました」「天に二つの太陽は無く、世界に王は一人であります。我国には真の天子がおはします以上、幕府は国王を称してはなりません」(宮田正彦氏訳)
 ここには、はっきりと尊皇斥覇の思想が示されている。もともと『正名論』は、老中・松平定信の求めを受けた彰考館総裁・立原翠軒(たちはらすい けん)の指示で書いたものとされるが、翠軒は幽谷の主張が幕府批判と疑われる恐れがあると懸念し、定信に提出しなかったと言われている。幕府批判と疑われる言説を公表することは困難な時代が続いていたということである。しかし、幽谷は『正名論』によって大きな壁を突き破ったのである。名越は次のように書いている。
 〈幕府の親藩であり、三家の中に位置する水戸藩に起った水戸学派としては、武家政治に対する批判の発表は現実の徳川幕府に対する問題ともなる故に、勢ひ慎重であり含蓄あるものでなければならなかったが、この壁を突き破って勇敢に学問的信念を吐露した最初の人物が、藤田幽谷であり、その表明の最も直接的であったのが「正名論」であることは古来注目されるところであった〉(『水戸学の研究』)
 幽谷が尊皇斥覇の思想を明確にする過程において、栗山潜鋒の『保建大記』の影響は極めて大きかった。会沢正志斎が幽谷の教誨(きょうかい)を録した『及門遺範(きゅうもんいはん)』には「成童にして保建大記を読み、憤発興起、此れより読書を好むこと他日に倍す」とある。
 幽谷の尊皇斥覇の思想を考える上で、栗山潜鋒の思想と並んで注目すべきは、高山彦九郎の影響である。彦九郎は、伊勢崎で村士玉水(むらじぎょくすい)、浦野神村らと交友する中で崎門学に傾倒し、尊皇斥覇の思想に開眼していたのだ。彼は、宝暦事件、明和事件、それに続く安永事件を乗り越え、朝権回復の運動の継承を志していた。
 幽谷は、『正名論』を著す前年の寛政二(一七九〇)年六月に彦九郎と会見していたのである。彦九郎の日記には、この会見について「一正(幽谷)と大義の談有りける、一正能く義に通す」と記されており、彦九郎と幽谷が尊皇斥覇の思想で意気投合したことが窺える。
 当時、彦九郎は光格天皇による朝権回復に大きな期待を寄せていた。光格天皇は実父典仁親王への尊号宣下を希望されていたが、彦九郎は全国を渡り歩いて支持者を募り、尊号宣下実現に挺身したのだった。ところが、その運動は幕府の追及を受け、寛政五(一七九三)年六月二十八日、彦九郎は久留米で自ら命を絶った。幽谷が彦九郎を追悼した「高山処士を祭るの文」で、「能(よ)く王を尊び而して覇を賤しむを知る」と称えたこともまた、尊皇斥覇の思想で両者が共鳴していたことを物語っているのではなかろうか。
 

尊皇斥覇の思想が政治運動を支える力となる瞬間


 尊皇斥覇の思想は、その時代の「覇者の政治=ウシハクの政治」への強い憤りや、目の前の国民生活の安定への切なる願いに支えられた時、机上の空論から脱し、そのリアリティを獲得する。そして、政治運動を支える強力な力となる。
 例えば、昭和の時代には、政治と結託した財閥が富を独占する一方で、疲弊した農村で娘の身売りが相次ぐような状況を目の当たりにした青年将校たちが、尊皇斥覇を掲げて昭和維新運動に身を投じた。
 『勧農或問』で「民は邦の本」と書いた幽谷を支えていたのも、現実政治に対する危機感だったのかもしれない。そこで注目したいのが、彦九郎が単に尊皇斥覇を高唱するだけではなく、全国各地に志のある人物を訪ね歩き、社会の実情把握に努めていたことである。彼は天明の大飢饉の惨状もつぶさに見聞していたのだ。天明二(一七八二)年から同八年にかけて発生した飢饉により、餓死者・病死者は全国で九十万人を超えたとされている。当時、老中として幕政の実権を握っていたのが田沼意次である。幕府権力と特権商人と結託して財政の立て直しを図ろうとした田沼は、積極的に株仲間(営業上の特権を与えられた同業者組合)を奨励したが、賄賂の横行によって政治腐敗が極まった。こうした政治腐敗に対する国民の不満が高まり、各地で百姓一揆や打ちこわしが勃発していたのである。天明四(一七八四)年三月二十四日に、意次の長男・田沼意知を切りつけた佐野政言(まさこと)(善左衛門)が「世直し大明神」と持て囃されるほど、田沼に対する国民の怨嗟の声が充満していた。田沼は天明六(一七八六)年に失脚、翌天明七年に松平定信が老中首座に就き「寛政の改革」が始まる。
 彦九郎は幽谷と会見した寛政二(一七九〇)年に、ロシアの脅威にさらされている蝦夷へ渡ろうと決意して東北に向かった。結局、蝦夷への渡航は断念したものの、東北各地で、天明の飢饉の惨状について見聞することになったのだ。彦九郎の「北行日記」には、住民たちが飢えに耐えかねて人の肉を食って死んでいった話など、惨状が綴られている。しかも彦九郎は、天災以上に、重税や御用金の取立てが被害を大きくしたことを知り、憤っていたのだ。あるいは、幽谷はそうした彦九郎の思いを共有していたのかもしれない。眼前の惨状を憂い、「蒼生安寧=シラス=民主主義」を理想とするわが国本来の姿との落差を実感する時、尊皇斥覇の思想は政治を変革する原動力となる。
 いずれにせよ、自らの信念を吐露した幽谷の『正名論』こそ水戸学発展の礎であり、幕末の志士の魂を揺さぶった『新論』は『正名論』抜きには存在しなかったと言っていいだろう。水戸学派は時代の変化をとらえて、その「本音」を少しずつ吐露し始めていたのである。
 皇紀二千五百年を控えた天保年間に、東湖は「本音」を語り始めた。天保五(一八三四)年に、烈公が老中に建白した神武天皇陵修復が拒否された瞬間である。東湖は烈公に呈した封書で、「御当代の儀(徳川幕府)は室町鎌倉と同日の論にこれ無き段は勿論に御座候得共、極内実の所を申上候へば、矢はり鎌倉の弊風残り居り候類も少なからず」と述べたのである。そして、安政五(一八五八)年に大老井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するや、水戸学の国体論は尊皇討幕思想として志士たちを突き動かした。そして明治維新が成就することによって、「覇者=徳川幕府」による統治が終焉した。それは、「肇国の理想=わが国独自の民主主義」への回帰であった。
 わが国では小泉政権以来の新自由主義的な「改革」によって格差が拡大し、貧困に喘ぐ国民が急増した。コロナ禍がそれに拍車をかけている。蒼生安寧を再び取り戻すために、水戸学の思想がいまこそ求められているのではないか。

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