S先生

 私の心の中に最も印象深く刻まれている先生は、S先生だ。
 
 S先生は、中学2年と3年の音楽を担当した先生だった。彼は、東京芸術大学を卒業し、学生時代からチェロを学んでいたそうだが、そのようなことはまったくおくびにも出さず、いつも飄々としており、ニコニコ笑っている人だった。
 
 私はひょんなことから中学1年生のときに、中学校の器楽コンクール(県大会)に出場することになった。ひとつ上にとんでもない天才少女がいて、なんとアコーディオンでビバルディの四季を演奏することができた。私たちはハーモニカで彼女の伴奏をする役割だった。
 
 私どもの中学校は、それまでそのようなコンクールに出たことはなかったのだが、S先生が器楽部の顧問に就任してからめきめきと実力をつけて、とうとう県大会出場まで漕ぎつけた。
 
 その年は県大会止まりだったが、翌年は県大会で優秀な成績をおさめ、なんと全国大会に出場することになった。


 私は女の子ばかりの器楽部が嫌で入らなかったのだが、結局コンクールのときには助っ人として参加することになった。実際に練習に参加してみると、特に上級生の女の子たちと仲良くなり、とても雰囲気がよかったので、器楽部に入ればよかったと後悔した。
 
 全国大会は東京で冬に行われたのだが、私はこの時生まれて初めて東京を経験した。私の故郷である雪国では、冬は毎日雨か雪で、晴れても曇り空だった。しかし、東京に着いてみたらみごとな快晴で、とても同じ日本とは思えなかった。
 
 ホテルを出ると、田舎ではまずお目にかからない派手な格好で歩いている人がいてびっくりした。また、宿泊したホテルの裏に大学があり、夜なのに大声を上げている人たちがいることにも驚いた。後年、偶然ではあるが私はその大学に入ることになった。
 
 S先生は、3年生の夏休みに、生徒たちに曲を作ってくるように宿題を出した。休み明けの音楽の授業の時、集まった楽譜を見て、先生は一見ですらすらとピアノで弾いてくれた。その時先生が弾いてくれた私の曲が今も耳に残っているが、やはりプロが演奏すると、素人が作った曲でも素晴らしいものになるものだと感心した覚えがある。
 
 S先生は、音楽以外に国語も担当していて、私の担任ではなかったものの、私の書いた感想文をたいそう褒めてくれた。
 
 この感想文は教科書に載っていたロシア文学の「信号」(ガルシン著)に対するものだったのだが、列車転覆を企てたヴァシーリィとそれを防ぐために自らを傷つけて血で染めた旗を振ったセミョーンの話で、大勢の生徒がセミョーンに肩入れする中で、ヴァシーリィがなぜそのような行動をとったかを考えるべきだと書いた私の視点が素晴らしいと言ってくれた。
 
 このように私の文章に共感してくれたのは、S先生が初めてだった。今日、私は素人ながらこうやって文章を書いているが、自分の思ったこと、感じたことをそのままストレートに表現してもよいことをS先生から学んだ。
 
 15年前に、私は田舎に住んでいる幼馴染みから、「先輩が語る」というテーマで後輩たちに話すように依頼を受け、卒業した中学校に行ってきた。
 
 私の田舎は構造不況産業の街で、少子高齢化が進み、街全体に活気がない。なんとか後輩たちを元気づけるつもりで、私の職業の話以外に人生の夢について話したのだが、体育館で私の話を聞いている生徒たちの後ろに、なんとS先生の姿があった。
 
 私の幼馴染みから聞いて、わざわざ訪ねてきてくれたらしい。
 
 涙が出そうになった。

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