奇跡②
「#子育て」
「#鎖肛」
「#育児の悩み」
「#奇跡」
子どもは、生まれた翌日手術を受けた。
全身麻酔で6時間ほどの手術だったと思う。
私は帝王切開した痛みがひどいのと、何が起きているのかわけわからず泣いていた。
だから、自分の精神状態が不安定であまり覚えていない。
ただ、言葉で言い表せない自分の傷だけはしっかり覚えている。
1番心にこたえたのは、出産したあと、周りの皆は赤ちゃんがすぐそばにいたけれど、私は、子どもが別の病院で手術を受けているということ。
胸が張って母乳が出てきても、ここには初乳をあげたい我が子はいない。
周りの皆は初乳を直接あげている。
私は、初乳を子どもに届けるため、専用の袋に入れることしかできない。
子どもにとって母親の初乳には1番栄養がつまっているから免疫力をつけるために母乳が出るなら直接あげたかった。
そんな中、子どもは私より強かった。
大手術に耐えて闘った。
人工肛門ができたことで、排便は可能になった。
ひとまず、いのちの心配はいらないかと思いきや次なる難題がきた。
先生の説明では、まだ最低でも、2回の手術が必要だということ。
肛門を作る手術を半年後。
人工肛門を閉じる手術を1歳の誕生日のタイミングで。
この子はまた、手術を受けなきゃいけないのか?
また、痛い思いをするのか?
ことばでは言い表せない…暗闇にいた。
出産後、1週間で私は退院した。
退院は一般的には赤ちゃんとお母さんは一緒だ。
「あれ、赤ちゃんの泣き声聞こえないけど赤ちゃんは?」
と近所の人からの言葉。
私は、仕方なく言葉を濁す
「ちょっと…」
それでも、しつこくきかれたこともあって、
「まだ、病院です。」
と言ってその場から逃げた。
なぜ、そんな場面に遭遇するかと言うと、近所は高齢者が多く、自宅に居る人が多かったことも影響している。
私は、産後1ヶ月は運転が禁止されていたから、電車とバスを乗り継いで病院に通った。
子どもは、乳糖不耐の可能性もあったため、母乳を冷凍して保冷バックに詰めて病院へ毎日向かった。
乳糖不耐とは、母乳や一般的なミルクではお腹をこわしてしまうので、下痢などの原因にもなり、結果体重も増えないということ。
半年後に6キロにならないと手術ができない。
だから、体重を増やすことが必要だった。
病院につくと、除菌など済ませてICUに入る。
ようやく我が子に会えるのだから、嬉しい気持ちもあったけれどその何倍も不安があった。
その頃の写真を見れば一目瞭然。
笑顔がない。
子どものお腹には人工肛門がある。
人工肛門をカバーするパウチと呼ばれるものの管理が必要になる。
子どもの腸のサイズに合わせてパウチなどを手作業で作らなければならない。
私にできるのだろうか。
乳糖不耐だから、母乳も全て冷凍して量を管理しないといけない。
足りない部分はボンラクトミルクと言われる大豆からできているミルクと併用させる。
ストマがあるから肌がかぶれないように清潔にする必要があった。
沐浴方法も教わった。
看護師さんから勧められたのは、自宅の洗面台が新しいならば洗面所での入浴だった。
ストマの部分も扱いやすいし、特に汗をかいてかぶれないようにするためには、こまめに沐浴が必要。
昼間に、一人で沐浴させるにはその方法が1番やりやすいと。
それから、通うこと約1ヶ月。ようやく退院の日。
子どもを連れて帰ることは不安だらけであり、病院にもう少し入院できたらなぁ、と思っていた。
万が一のことを想定して、病院が1番安全と思っていたから。
それからは、不安以上に大変な毎日が待っていた。
まずは、夜のミルクだ。
胸が張るたびに起きて、母乳専用のジップロップに入れて冷凍。
子どもが起きる時間に合わせて、冷凍してある母乳を解凍する。
あとは、ボンラクトミルクを作る。
ミルクを作って飲ませるだけなら良いのだが、母乳の作業が余分にあり、思うような睡眠ができない。
私もイライラしてしまう。
最初は1時間から2時間おきに起きていた。
そして、追い打ちをかけたのは、思うようにミルクを飲んでくれなかったこと。
「体重増やさなきゃいけないのに、なぜ飲んでくれないの?」
ミルクを飲ませなきゃ、飲ませなきゃと焦るあまり、嫌がる子どもの口に何回も哺乳瓶を差し込んでいた。
満足にミルクを飲ませることすらできない。
ミルクの時間は、親子の大切なコミュニケーションの場であるはずなのに、次第に試練のようなものになった。
心の扉は閉じた。
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