シュタイナー教育と心理学②
ルドルフ・シュタイナー著 新田義之訳 『教育の基礎となる一般人間学』を読んでいます。
前回から第2日目の講義内容に入っています。今回は表象について。
第一段落要約は↓
第二段落要約
普通一般に表象と呼ばれているものについて一度考えてみよう。なぜなら私たちは子どもたちの表象力と感情力と意志力を育てるからである。
表象には映像(Bild)の性質がある。
表象の中に実在するものの性質を求めたり、現実の存在を見つけようとするのは、大きな幻想に身をまかすことになる。
私たちは私たちの内部に存在物(実体、物体)の要素を目や鼻や胃袋などいろいろ持っているが、これらを用いて表象を作ることはできない。自分の本質を伴って物質的諸要素の中へと流れ込んでゆき、自分と物質的諸要素とを一体化する。この事実が、私たちが表象によって「何かを把握する」可能性を生み出す。つまりこの事実によって、表象が私たちと共に流れ去って行くことのないようにし、私たちが表象の中に滞在するのを可能にしている。
表象は「本当には存在していない、単なる映像にすぎない」ものである。
存在と思考とを同一のものと見なしたのは、大きな誤りである。「考えるゆえに我あり」という思想は過誤である。私の認識の及ぶ範囲内には私は存在してはおらず、存在するのはただ映像だけなのである。
今回は難解で要約というより各所引用の性質になってしまった。
デカルトの「Cogito ergo sum」を「我思う、ゆえに我あり」と定型訳にしていない意味がここであるのかどうか疑問が残るが、それは置いておいて思考する人間=存在する人間と同一とみなさないことを考える。
単なる映像にすぎない表象を観測している人間が存在するからこそ、表象という単語を認識できるわけである。
そもそもデカルトが存在と思考を同一のものと見なしたといえるのか。
また「最近数百年間に人類が歩んだ発達期」はおそらくアトランティス後第五発展期のことである。
現代哲学、心理学における「表象」の定義を見てみたが……こちらも難解だ。
「子どもたちの表象力を育てるために表象の定義を見直す」というのは不可解である。
新しい"表象"に基づく"表象力"を教育するのならば、新しい定義とその教育法を述べればよい。今までの表象という定義の表象力を教育するのならば、現在の表象の定義を否定してはいけない。
どちらにせよ、現在の表象を否定して「私たちは子どもの表象力を育てるから見直しが必要だ」という文脈は意味が通らないように感じるのだ。
というわけでこの第二回講義も難読となりそうである。
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