無念のDNS(出走棄権)
2024年12月15日、万全の準備を積み重ねてきた僕は加古川マラソンに挑むはずだった。しかし、スタートラインにすら立つことができず、DNS(出走棄権)を選ぶことになった。理由は体調不良。それは、これまで積み重ねてきたすべてが無駄になったような感覚だった。
2023年11月、初フルマラソンでの絶望
初めてのフルマラソンは、神戸マラソン。僕は「サブ3.5」という目標を掲げ、過信したままスタートを切った。
月間100km程度の練習でも「なんとかなるだろう」と、根拠のない自信を抱いていた。しかし、レースは違った。
30km過ぎ、足が鉛のように重くなり、景色が霞む。僕は無力だった。結果は3時間45分台。何もかもが悔しかった。フルマラソンは練習で積み上げたものだけが、そのまま結果として表れる。その残酷な事実を痛感した。
次こそは絶対に目標を越える。その悔しさだけを胸に、2024年4月、淀川マラソンにエントリーする。
3ヶ月間、次の大会に向けて走る
淀川マラソンまでの3ヶ月間、月間走行距離は平均180km。夜明け前、日が暮れてから。ひたすら足を動かした。
けれど、努力はこんなもんじゃ足りなかったみたい。
マラソン当日の気温は20℃を超え、30km地点で僕の身体は熱中症に襲われる。目の前が白くなり、何度も立ち止まる。救護スタッフが心配そうに声をかけてくれたが、僕はただ一つ「ゴールしたい」という意地だけで走り続けた。
結果は3時間55分台。再び叩きつけられた結果に、涙すら出なかった。
走っても走っても、足りないものばかり。けれど、悔しさは不思議な力になる。
「次のフルマラソンで、絶対にサブ3.5を達成する。」
その気持ちだけで1年間走り続けた。
壁を越えるために不安要素を潰す
まずは不安要素を潰していく。30km以降の足攣り、暑さへの耐性、補給の知識、そのすべてが足りなかった。
「量を知らない者に、質を語る資格はない」
よく聞くそんな言葉を胸に、月間平均走行距離を273.1kmまで積み上げた。
そして7月、太陽が容赦なく照りつける中、僕は月間400kmを走破する。信じられないほどの暑さと、吐き気に似た疲労。でも、走るたびに僕の足は少しずつ強くなっていき、自信がついてきた。
「42km走」その狂気の練習に手を伸ばしたのは真夏
7月、8月、9月。月に1度、フルマラソンと同じ距離を走る。30kmを越えてからが地獄だった。足が止まり、汗が枯れ果て、それでも前へ。
でも、3回目の42km走で、僕は変わっていた。38km地点まで、余裕さえあった。重かった足が軽くなり、走ることが「苦行」ではなくなりつつあった。はじめて楽しさを感じることができた。
迎えた本番2ヶ月前。
20km走は1km4分50秒のペースで軽やかに。5kmタイムトライアルでは自己ベストの20分10秒。僕は確信していた。「今度こそ、いける。」
ここまでの状態を作り上げたらあとは当日冷静に走り切るのみ。
しかし、最後の最後に、僕の身体は裏切った
大会2週間前、家族の体調不良が続き、息子の病院付き添いもあり、僕も体調を崩す。
レース2日前、2kmのジョグで異常を感じた。ペースはキロ5分。それでも心拍数は160まで跳ね上がり、息が上がる。咳が止まらず、どうにもならない。
僕は知っている。フルマラソンがどれほど過酷なものかを。「この状態では、無理だろうな」
DNS――出走を棄権する決断は、これまでの努力を全否定するような気がしたし、なかなか「棄権する」と決めきれなかった。
でも棄権すると周りに伝えてみると、「良い判断だと思うよ」とか「次に繋がるよ」と言ってもらえて、とてもホッとした自分がいた。
それでも、まだ終わっていない
次は、2月の姫路マラソンに向けて、僕は再び走り出す。次こそ、必ずサブ3.5を達成する。まずはスタートラインに必ず立つ。そして、そこから、絶対に目標を達成する。
「そんな簡単に達成できたら面白くないだろ?」誰かにそう言われているような気がする。
大人になって、これほど何度も壁にぶつかることって、正直なかった。仕事だって必死に努力して何度もトライすれば、目標には到達してきた。
フルマラソンは新しい世界を見せてくれている。ただの市民ランナーがここまで夢中になれる趣味・競技。狂ったように積み重ねても、努力だけでは届かない現実を、僕は痛いほど知った。でも、だからこそ、さらに夢中になる。
こんなにも難しい。だからこそ、挑む価値がある。
フルマラソンの魅力に取り憑かれた理由が、少しだけわかった気がする。
次こそ、必ず目標を超えてみせる。
次こそ必ず!!!!!!!!