恋の証人。
これは本当に起こったことかもしれないし、そうじゃないかもしれません。
「俺、宏美とも寝てるよ」
男が口にしたのは、わたしの憧れの女性の名前だった。
ちょっとだけ虚をつかれて、眠気がとんだ。
深夜3時までだらだらと抱きあって、わたしたちはまだ裸でベッドに寝そべっていた。さっきまで繋いでいたその手が、あの優しい女性の体にも触れていたなんて。
バイト先のバーで、わたしが働き始めるよりもずぅっと昔に働いていた男とその女性、宏美さんは、いまでもそのバーにそれぞれ飲みにきていた。
そういえば、お互いの口から相手の名前を聞くことはあっても、店でふたりが揃う姿を見たことは一度もなかった。
「へぇ。いつからですか?」
「最初は俺と宏美がハタチくらいだったから、10年以上前かな。君なんて小学生だったんじゃない? その頃はちゃんと恋人同士だったんだよ。別れた後はただの飲み友達だったんだけどね。
2年前くらいかな。宏美が彼氏と別れて、ひどい落ちこみようで。慰めてるうちに…ね」
そんな話を、1mmの嫉妬もなく聞いた。嫉妬なんてしても仕方がない。
男は、宏美さんでも、もちろんわたしでもない女性と家庭を持っていた。
「ここでも、やりました?」
カメラマンをやっている男の仕事場だという狭いワンルーム。
はじめて訪れたその部屋には、大きなベッドと仕事道具しかない。愛人をつれこむには、こんな寂しい場所がぴったりな気がした。
男は質問には答えず、わたしの頭を撫でた。
「なんか、どろどろしてますね。まきこまれたら面倒くさそ」
見慣れない天井を眺めながらため息混じりにそう伝えると、男はなぜか嬉しそうに目を細めた。
大きな手に抱きしめられながら、この部屋で男が宏美さんを抱く姿を思い浮かべようとしたけれど、半分眠りにからめとられた脳みそではうまく想像ができなかった。
◇◇◇
「最近、ヤスユキと仲いいんだってね」
バイト先のバーに宏美さんが飲みに来たのは、数日後だった。
宏美さんの顔に貼りつく引き攣った笑顔に気をとられて、答えに詰まった。
細い体に、メタリカのビンテージTシャツとジーンズ生地のミニスカート。そんなラフな格好をしていてもどこか色気のある宏美さんが好きだった。
「そうなんですよ。最近ちょくちょく遊んでもらってて。師匠と子分って感じです」
へらへら笑ってみせると、宏美さんの表情はさらに引き攣った。
「そっか。でも、アイコちゃんは可愛いから、向こうは子分だなんて思ってないかもしれないよ」
大丈夫ですよ。あの人を奪ったりできない。そもそも、宏美さんのものじゃない。彼には家庭があるんだから。
自分だって同じ男と寝てるくせに、今すぐ宏美さんの肩を揺さぶって彼女の目を覚したいような衝動にかられた。
「大丈夫ですよ。妻帯者に興味ないんで」
そう笑ってみせると、「そっか。そうだよね。余計な心配しちゃった」と宏美さんは寂しく微笑んで、わたしの作ったジンライムに口をつけた。
◇◇◇
男の仕事場に行ったのは、せいぜい5回くらいだったと思う。
1番に愛されていないと気が済まないワガママなわたしには、1番にも2番にもしてくれない男への興味を持続させることが難しかった。
大学の交換留学が決まったり、新しい恋がはじまったり。慌ただしく走り抜ける日々の中で、ふたりのことはすっかり忘れていた。
写真展の案内がきたのは、男との関係が終わって半年後くらいだった。
男からのメールには、個展の日程を伝える短い文面と、DMハガキの画像がついていた。
なぜ足を運ぶ気になったのかは覚えていない。
留学準備の間にぽっかりと空いた時間を埋めたかったんだろうか。
会場のちいさな喫茶店でコーヒーを頼んで、待っている間にひとつひとつ、写真を眺めていった。
いろんな人物のポートレートのなかに、その写真はあった。
どこかのビルの屋上で、秋晴れの空を背景にして無邪気に笑う宏美さん。
羽織っているキャメル色のダッフルコートがふわりと風を孕んで、そのままどこかに飛んで行ってしまいそうだった。
彼等の10年以上に渡る関係を、簡単に「わかった」なんて言ってはいけないのかもしれないけれど。
その写真を見て、男にとって彼女は自由の象徴で、彼女にとって男との関係は、出会った頃のまま純粋な恋なんだと知った。
店を出て、ふたりのどちらかに連絡をしたいような気持ちになったけれど、それはしてはいけない気がした。
誰にも言ってはいけない。
彼等の恋を。知ってしまったことを。自分の胸にそっとしまって、きちんと鍵をかけておこう。
それから今日まで、ふたりのことは誰にも口外しなかった。
◇◇◇
宏美さんとは、留学を終えて帰ってきたときに元バイト先のバーで一度会った。
バーのマスターとママに挨拶だけするつもりで彼氏を外に待たせていたから、カウンターの奥に座る宏美さんには手だけ振って、店を出た。
「アイコちゃん、待って」お店のあるビルを出たあたりで、息切れした宏美さんに呼び止められた。
「私ね、アイコちゃんに会いたかったの。すごく、すっごく、会いたかったの」
そう言って宏美さんは笑って、わたしの両手をとってぎゅっと握った。
どんな言葉を返せばいいかわからなくて、わたしもぎゅっと、宏美さんの手を握りかえした。
「わたしも、宏美さんに会いたかったです」ただそれだけを伝えた。
宏美さんは、わたしと男のこともぜんぶ知っていたんだろう。
いろんなことを聞いてみたかったけれど、彼女とはそれ以降会っていない。
◇◇◇
男と最後に会ったのなんてもっと前だから、写真展の感想すら伝えられていない。
男はいまも配偶者と幸せに暮らしているし、宏美さんは別の男性と結婚したらしい。
男はなぜあの日、はじめて部屋に連れこんだだけのわたしに「宏美とも寝ている」と伝えたのだろう。
宏美さんが最後にわたしに会ったとき、飲みこんだのはどんな言葉だったんだろう。
彼等は知られてはいけない恋を、確かにそこにあるのに「ない」と言い続けなければならなかった感情を、ほんのすこしだけ誰かに見せたかったんじゃないだろうか。
一瞬でもその恋が「あった」と、誰かに証言してほしかったんじゃないだろうか。
「恋」と聞くと、わたしはまっさきに彼等を思い出す。
口を噤んだ恋人たちの姿を、わたしは今でも、覚えている。