銅線が繋がる
人との出会いで、銅線が繋がるような感覚になることがある。
自分自身の心臓から、何百、何千本もの銅線が伸びていて、
すでに繋がっている線もあれば、
まだ新品・未使用の、繋がっていない線もあったり、
繋がっていたけど、またいつか繋がる日を待つ線もあったり、
ショートして焼け焦げている(けど焦げたままで、ちゃんと残ってる)線もあって、
いろんな太さや長さの銅線とともに、一生を過ごす感覚になることがある。
これは一生繋がる、細く長く続くだろうな、と思う銅線があったり、
この刹那で終わりかも、なんて思いながら、とりあえず太めの線を繋いでおいて、後でほどいて、またいつでもつながれる状態にしておくこともある。
銅線は、相手の心臓からも何百・何千と伸びていて、相手も 自分に対し
「どの線を伸ばそうかな」と探っているんだろうな〜と感じる瞬間もある。
そういう時は、自分も慎重に選ばないと、、と思う。
後から繋ぎ直すのは、うまくできることもあるけれど、うまくいかないことも多々あって。
一方で、「これは!!」 と思う相手には、一発で 完璧にフィットする銅線が選べたりして、そういうのを「ビビビ」といったりするのだろう、と思う。
銅線は、人間同士だけじゃなくて、ラジオとか、ドラマとか、バラエティ番組とか、エッセイとか、小説とか、映画とか、そういった物語や、
過去の自分がやりとりして 受け取ってきた、大切な言葉も、時空を超えて繋がっていたりして、
いまの自分が辛いときには、その銅線をメインに切り替えて、エネルギーを補給することもある。
で、たまに、いろんな銅線を繋ぎすぎた挙句、頭の中がボーッと熱をもってしまって、好きな音楽とかラジオを聴くことが原動力となる "冷却ファン" みたいなものを いくら回しても熱がおさまらない時があって、
そういうときは、一旦、全部の銅線を根本から切りたくなる(もしくは、銅線を全部まとめるブレーカーみたいなものがあって、そのブレーカーを ガンッ と降ろしたくなる)瞬間がある。
そういう時は、音楽もテレビもラジオも電気も消して、ソファで横になって、仰向けになって、30分間くらい、ぼんやり過ごしたりする。
もしくは、もう何十回も観てるから セリフも流れもほぼ覚えているドラマをつけて、だらだらと過ごすしかなかったりする。
自分の心臓から伸びる銅線って、不思議だ。
見えないくせして、人生において めちゃめちゃ大事な線だ。
爆弾処理するときの、最後に切るのは赤か青か?じゃないけど、
1本切れただけで電源落ちちゃったり、何本切れても案外大丈夫だったり、
それが、その場面になってみないと分からないのって、結構リスクだ。
そんなわけで、「この銅線は、繋がる気がする...!」と思って、
勇気を振り絞って繋げてみたものの、向こうの銅線はそこまでウェルカムではなく、完全にこちらの勘違いで、恥ずかしくて堪らなくて、夕方から全然立ち直れていない私。恥ずかしい。とても悔しい。
明日から落ち着いて、お互いの銅線を見極められるようになりたい。
とりあえず、22時からの #むかいの喋り方 に、銅線を繋げよう。
また 銅線を繋いで、心臓にエネルギーを注いで、
明日からの元気をいただこうと思う。