「私、幸せになることを 諦めませんので。」
幸せになることを諦めないって、とっても勇気がいることだと思う。
私は、その勇気を出せないままでいる。
昨日、久しぶりに、異性から好意を告白された。
よくよく思い返せば、実に9年ぶりのシチュエーションだった。
「君は、自分は幸せになるべきではない、幸せになってはいけない、と
自分を縛り付けているけれど、でも そしたら
君の幸せが自分の幸せであると考えるような僕みたいな人は、
一生幸せになれないってこと?」
過去を思い出せば、記憶の絵画は濃い灰色のクレヨンで塗りつぶされた。
夢の中で襟を掴まれ、揺さぶられ、怒鳴られ、冷や汗をかいて目覚め、
そのたびに「自分は幸せになってはいけないんだ。」と思った。
いまの暮らしで、幸せではない日々を送っている というわけではない。
むしろ、大変なこともあるけれど、幸せの方が多い日々だと思う。
美味しいごはんを食べられたら幸せだし、ふらっと立ち寄ったお店で
自分に似合う服が見つけられて、それを買えたから幸せだ。
家から駅まで向かう自転車で、全部青信号で行けたら幸せだし、
窓から秋の良い風が吹いて、カーテンが揺れるたび、心から幸せを感じる。
人として、気が合う人、好きな人、大切な人はいる。
でも異性としての好きが分からなくなって数年経った。
幸せのなり方はそれぞれで、いろいろな種類の、ひとつの手段として、
誰かと付き合うことや、結婚で幸せになれることもわかっているけれど、
だからといって それが全てを解決できる手法ではないこともわかっている。
というか、むしろ、「結婚が幸せの全てではない」と言い聞かせては、
異性との恋によって幸せになることから、 自らを遠ざけているのだと思う。
結局、冒頭の方には、カルテットで家森さんが語っていた
「SAJ」の3段活用が出来ないまま お断りをしたのだけれど、
そのお断りも、自分が幸せになるためにした決断なので、
やっぱり しあわせになりたいのは相違ないのだとは思う。
この週末、ほんとうはいろいろとやりたいことがあったのだけど、
いろいろとあって、ずぅっと「大豆田とわ子と3人の元夫」を観ていた。
ドラマの1話目、最後に、とわ子が3人の元夫に言い放つ言葉で泣いた。
ドラマの2話目、最後に、とわ子と慎森がカフェで話す会話劇で泣いた。
ドラマの7話目、最後に、とわ子と小鳥遊が公園で話す会話劇で泣いた。
ぼーっとテレビを観ていたら、窓の外が暗くなった。
ソファに寝っ転がって、薄暗い部屋の天井を見て、ぼーっと歌を聴いた。
ごはんを食べなくちゃ、と思って、斉藤和義「空に星が綺麗」を口ずさみながら、コンビニに餃子を買いに行った。
ここ数日、言葉の力を再確認するような出来事が多かった。
引き寄せの力ではないけれど、自分が持つ能力があるならば、
いまの私を縛り付けている思考さえ取り除くことができるなら、
異性との恋によって幸せになる道も開けるのだと思う。
幸せになりたい、と、本当に、心の底から願うことができるのならば。
幸せになってもいい、と、自分を赦せるのならば。
「生きている人は、幸せを目指さなければならない。
人は、時々寂しくなるけど、人生を楽しめる。
楽しんでいいに決まってる。」
「私、幸せになることを諦めませんので。」