Rush Gamingという日本チームと出会うまで(前編)
Rush Gamingという日本のCall of Duty (COD) e-sportsチームとの出会いによって、今、私は過去最高にCall of Duty World League (CWL) Pro League の観戦を楽しめている。ゲームとの出会い、CODとの出会いを学生時代を絡めて振り返りつつ、Rush Gamingを応援するに至った経緯について書いてみようと思う。ところどころ話が脱線するとは思うが、最後まで暇つぶし程度にお付き合い頂ければ嬉しい。
■ 幼少時代とゲーム
私とゲームの出会いは小学校時代、近所に住む友人の家に遊びに行った時、友人の父親が熱心にテレビの画面を見つめながら手元を動かしていた姿を若干引き気味で視界の端に映したのが始まりだ。大の大人が画面の向こうのキャラクターの動きに一喜一憂する姿が当時の私には余程珍妙に思えたのだろう。それでも、初めて目にする物に子供特有の好奇心を抑えられずにはいられなかった。
「それってなあに?」
これが、最初のゲームとの出会い、NINTENDO64と『ゼルダの伝説』との出会いである。今考えてみれば任天堂さんにはお世話になっていた。ゲームボーイカラーでドラゴンクエストIIIを遊び、ニンテンドーゲームキューブでどうぶつの森を遊び、ゲームボーイアドバンスでスーパーマリオアドバンス3を遊び...。ただ、当時の私はやはりゲームよりも本の方が魅力的で、結局途中で遊ぶのをやめてしまった為あまりゲームでの思い出というものがない。唯一記憶に鮮明に残っていることと言えば、今でいう"ゲーマー”であった友人の父親に誘われて遊んだファミコンの『悪魔城ドラキュラ』が、見慣れない2D映像だった所為か鬼のように難しく感じた事くらいだ。
■ 高校時代、PlayStationと出会う
丁度私が小学校高学年に上がった頃だったか、母が環境含め日本の中高教育に関して疑問視するようになり、6年生になった数ヶ月後にはシンガポールに移住していた。唐突にインターナショナルスクールに打ち込まれ、右も左も分からない状態で、越えなければならないクエストが多すぎてゲーム離れが数年続いたので、ここでは割愛させていただこう。
高校に上がると同時に日本に帰国した私は非常に日本語と日本のゲームに飢えていた。そこで日本人の少ないインターナショナルスクールという環境の中で何とか日本人を捕まえ、知り合った相手がホラーゲーム好きのサブカルガールだったのは今思えば僥倖だったのだろう。
私にとって高校時代に初めて触ったPlayStation3はただひたすらにスタイリッシュなゲーム機だ...という印象だった。形やデザインもだが何よりコントローラーが私の知っている物よりも非常にスマートだったからだ。そしてゲーム『戦国BASARA 』シリーズとの運命の出会い。友人のサブカルガール宅で初めて遊ばせてもらい、シンプルなゲーム性とインパクトのあるキャラクター達に魅了され、同日夕方には中古屋でPlayStation2とソフトを買い込み浮き足立った気分で帰宅したのを今でも覚えている。デビルメイクライシリーズで遊び、テイルズシリーズで遊び、PlayStation3に買い替えSIRENで遊び、バイオハザードで遊び...。そんな、一部を除きゲームは一人二人で遊び楽しむものだという概念が覆されたのは大学生になってからだった。
■ 大学時代、ついにHaloを知る
実は大学時代、Xbox360とゲーム『Halo』シリーズにはとても助けられたのだ。大学はアメリカ東海岸のニューヨーク、マンハッタンの金融街ど真ん中のような立地に聳え立った学校の International Management(国際マネージメント)なんていう、ビジネス学科の中では他と比べて人口の少ない分野の専攻に通い始めた私は困ったことに中々友人ができなかった。言語が通じてコミュニケーションが問題なく取れるからと言って、その国の生活や文化にすぐさま馴染めるかと言えばそうでもないのだ。その上、通学に使用する電車の線はウォール街に向かう金融マン達で毎朝激混みで、どこの株がどうだの、隣の部署の誰々は昇進したらしいだのと朝っぱらからそんな会話に囲まれ、目の前はWall Street JournalとNew York Timesの太字が視界を埋め尽くす。大学ではビジネス法律の教鞭を執るのは現役で裁判所にお勤めする癖の強いジェントルマンだし、ミクロ・マクロ経済学の教授は元金融トレーダーでレジュメを配り終わって早々如何に自分の仕事がクソ(失礼、彼自身の言葉の為悪しからず)だったかを唾が飛ぶ勢いでコンコンと語り出す。もう高校生、ティーンエージャーとは違うのだ、働くとはどういうことかビジネスとは何か、責任と自覚を持って社会に出る戦闘準備をするぜ!そんなプレッシャーと現実を叩きつけるのは大いに結構。後々思い返せば今の私にとっては良い糧になっているものの方が多いのだから納得できる。が、当時18になったばかりの小娘にとっては精神的に大分堪えたのだ。特にタイミングが悪かったのか、当時学科には日本人がおらず、同じ環境下で味わう苦楽を同じ言語で共有できる相手がいなかったのもあるのかもしれない。
その次の年、夏の長期休暇が終わる間近だったか。自分の選択をまだ後悔したくない気持ちと、根っからの負けず嫌いな性格から生まれた「頑張れないと思いたくはない自分」が綯い交ぜになり、唐突にギャン泣きしたのである。今では笑い話だが、当時は相当辛かったのかもしれない。誰だってそんな経験はあるだろうが、喉元過ぎればなんとやらだ。当然、このままではいかんと思ったわけだ。そんな突然空気の抜けた風船の様にやる気が無くなっても困るし、無駄に頑張る必要のないことを頑張る様になってしまう力み方は視野を狭める。いっぱいいっぱいで「いつまで頑張ればいい」と思い始めたらガス抜きが絶対的に必要だ。「いつまで」?成したいことがあるのなら「いつまでも」だ。学びに終わりなどないのだから。
そんなガスを抜き、自分のペースを取り戻すことに頭を抱えていた時に出会ったのが、Xbox360と『Halo』だ。通っていた大学ともう1校別の大学が同じ建物を学寮として使用していたのだが、週末になるとゲーム好きが談話室に集まって騒ぐのがいつの間にかお決まりになっていたらしい。レポートの内容で少しばかり燻っていた私をそんなゲーム好きの集まりに誘ってくれたのは、生まれも育ちもロサンゼルス、首元のタトゥーがキュートなルーミーだった。談話室に行けばそこに集まっていたのは人種も性別も関係のない、ただのゲーム好きな学生達の山。テレビやソファー周辺にモニターを置いて各々好きなゲームで遊ぶ。それを囲む様に興味津々で覗き込むのはほぼ初対面な学生達。ルーミー曰く、大体が知り合いや友達を作りにこの集まりに顔を出しているというのだ。私はこの時初めて、ゲームという娯楽品が人と人を繋ぐ素晴らしいツールであることを実感させられた。
少し離れた場所から眺めていた私に声を掛けてくれたのは、母親の反対を押し切って実家からゲーム機を引っ張ってきたという1学年上の別大学の生徒キース氏(仮名)だった。その彼が遊んでいたゲームが『Halo』シリーズ。私がFPSというジャンルのゲームを知り、最終的にはCWLを通してRush Gamingという日本のチームを知るに至った原点となるゲームである。
『Halo』の話を始めると非常に長くなってしまうので、この辺りで一旦筆を止めようかと思う。記憶を整理しながら書き出してみていると話が脱線してしまうのが悪い癖なのだが、久しぶりに幼少時代の記憶の引き出しを開けた気がするので、それはそれで良かった様に思う。
それでは、この辺で。