日本絵画歳時記 桜(4)
こんにちは。椿です。
少し間隔が開いてしまいました。GWも終わり、立夏も過ぎましたが、日本絵画歳時記、桜の第4回目です。今日は宗教絵画、特に仏教関連の絵画に描かれた桜について見ていきたいと思います。
仏教絵画に桜?と疑問に思われるかもしれませんが、意外に多くの作品に桜は描かれています。その理由は様々ですが、ここでは大きく分けて二つのパターンをご紹介します。
まず一つ目は、勝地(しょうち)の象徴としての桜です。勝地とはすぐれた土地、特に景色などが素晴らしい場所を指していう言葉です。いまでも景勝地という言葉を使いますが、意味はほぼ同じです。
その勝地ですが、古来霊地化しやすい傾向にありました。景色が良く、すぐれた土地は、神や仏にふさわしいと考えられたのでしょう、神や仏が現れたとされる所は景色のよい勝地であることが多く、神社やお寺を建てるときも、勝地を選ぶことが適切とされていました。
これは14世紀初めに作られた「春日権現験記絵」という絵巻に記された一節です。奈良の春日に迎えられた鹿島の神(武甕槌命:たけみかずちのみこと)が、当地の三笠山の月、春日野の桜がいかに素晴らしいかを説き、香取の神と平岡(枚岡)の神に「春日に来てそれらを愛でましょう」と誘っているのです。いわば神様が神様を勧誘しているわけですが、実際これに応えて、香取の経津主神(ふつぬしのかみ)と枚岡の天児屋根命(あめのこやねのみこと)、その妻である比売神(ひめがみ)は春日に赴き、武甕槌命とともに四柱で春日大社の祭神になったとされています。
ここで注目して欲しいのは、「春日野の桜は素晴らしいから春日においで」と、神を誘う理由の一つに当地の桜があげられていることです。
この絵は春日大社を中心に、三笠山と春日野の風景をあわせて描いた春日宮曼荼羅と呼ばれるものです。神社の建物や社頭の様子が描かれるほか、本地仏(本地垂迹説でそれぞれの神本来の姿とされた仏)が宙に浮くように描かれます。それにより、単なる社頭風景図ではなく、仏教的な曼荼羅世界を表しているのです。
一目見て分かるように、そこここで桜が花を咲かせています。先に鹿島神がほめそやした春日野の桜が、社頭の象徴として描かれているのです。それはまた、神が降り立つのにふさわしい、勝地の象徴であるとも言えます。
さて、春日宮曼荼羅は春日大社、春日野という特定の場所を描いたもので、桜は名所のイメージとも密接に結びついています。これに対して、同様に勝地の象徴として桜を描きながら、特定の場所と結びつかない例もあります。
本図は鎌倉時代に流行した阿弥陀来迎図の一つです。阿弥陀如来一行が左上方から山を下るように飛来する様が、大変スピーディーに表されることから、通称「早来迎」と呼ばれています。
平安時代後半から、次第に阿弥陀如来に対する信仰が高まっていきます。辛く苦しい現世からの救済を阿弥陀に求め、その居所である極楽浄土への生まれ変わり、極楽往生を願うことが流行するのです。背景には、仏の教えが廃れ、悟る人もいなくなる末法の世が訪れると、当時考えられていたことがあります。
そうした中で、特に正しい修行を積んだ信仰者のもとには、臨終の際に阿弥陀如来が迎えに来る(来迎する)という思想が生まれました。本図はそうした阿弥陀来迎の様子を絵画化したものです。右下の建物で机の前に座り合掌しているのが、いままさに亡くならんとする信仰者です。
唐破風の屋根を備えた建物は立派ですが、あたりはまさに深山幽谷といった風情で、所々で桜が満開となっています。これは第一に、この場所が修行に適した勝地であることを示しています。仏道修行者は人気のない静かなところ(閑所)を選び修行するのがよいとされており、中でも深山幽谷は最上の閑所とされていました。信仰者が正しい場所を選び、正しい修行を行ったことを、阿弥陀が来迎する姿だけでなく、景観表現もあわせて示していると言えます。
一方で、満開の桜は、この場所が阿弥陀の来迎により、一時的に浄土と化したことを表している、という解釈もあります。阿弥陀来迎図には桜や紅葉が描かれることがよくあります。先にも述べた通り、基本的にはそこが勝地であることを示していると考えられますが、中には桜と紅葉が両方同時に描かれる場合があるのです。
本図も阿弥陀来迎図の一種ですが、先ほどとは形式が違い、山の向こう側から阿弥陀如来が姿を表したような構図となっています。「山越阿弥陀図」といって、真正面から阿弥陀如来を描き、信仰者の姿を描かない点に特徴があります。これは、迎えに来た阿弥陀の姿を信仰者の視点から捉えたものと考えられます。
本図もやはり山中が舞台となります。奥の方の山には種類のよく分からない樹木が小さく描かれていますが、手前の方にはもう少し大きく、いくつか別の樹木が描かれています。その中に、桜のような花木と、紅葉した楓の木が見えます。
一番手前に来迎の先導役と見られる童子が二人描かれますが、この花木はそれぞれの背後に描かれています。絵の具の剝落も多く、白い花の方は形がはっきりしませんが、桜のように見えます。そうだとして、不思議なのは紅葉と一緒に描かれることです。これでは春と秋が混在していることになります。
実を言えば、こうした例は他にもあります。特に社寺参詣曼荼羅など、社寺景観を中心に表された曼荼羅に多く見られるのです。その解釈には諸説ありますが、現実世界と異なり、四季を同時に、混在させて描くことで、そこが普通の場所とは異なる世界=異界であることを示そうとしたのではないか、という意見があります(参考文献)。
つまり阿弥陀来迎図の桜は、そこが修行に適した勝地であることを示すと同時に、来迎によりその場が一時的に異界=浄土となったことを表している可能性があるのです。
ただ、そうした解釈については注意が必要です。特に「早来迎」については、一部に赤い葉を付けた木が見られることに注目し、「山越阿弥陀図」同様、桜と紅葉に象徴される春と秋の混在表現だとする意見が見られます。確かにその可能性はありますが、本図の場合、赤い葉の形はモミジなどとは異なり、先分かれしない一般的な形となっています。これはヤマザクラの花が散った状態を表している可能性があります。よく見ると花の咲いている桜にも同じ形の葉が付き、しかも赤く表されているのです。
本シリーズの最初に、古い時代の日本ではヤマザクラ系の品種が一般的で、その特徴として花と葉が同時に開き、その葉は褐色であるものが多いという話をしました。本図に表されているのも、そうした特徴を持った桜の可能性があります。より細かな考察が必要ではありますが、その点を留意した上で、こうした四季表現については検討していくべきかと思います。
さて、ここまで見てきたのは、花の美しさが注目された、優れた景観を象徴する花木としての桜でした。一方で、桜にはもう一つ、異なる意味での象徴性があります。それは、盛りを過ぎると散ってしまう「はかなさ」の象徴です。これが二つ目のパターンです。
九相(九想)とは、亡くなった人間の体が腐敗し、白骨だけとなり、塵になるまでの9段階の様子、またその様子を頭に思い描く(観想)ことをいいます。仏教で、肉体への執着を捨てるために行う修行法の一つです。元となった仏書や詩によって九相の内容は少しずつ異なりますが、この絵巻では第一段階として新死相をあげています。
屋敷の一角で、いままさに亡くなった女性と、その死を嘆き悲しむ女性たちの姿が描かれています。横たわる女性の顔は文字通り生気がなく、悲しむ女性たちとは顔色も異なります。
ここで注目すべきは野外に描かれた桜で、満開に咲き誇りつつ、たくさんの花びらが散っています。人の命のはかなさを、散りゆく桜の花と重ね合わせ、象徴的に表しているわけです。対象として女性が選ばれているのは、美しさをほめそやされることが多いからでしょう。美しければ美しいほど、その死ははかなく、醜く朽ちていく死骸の穢れが強調されます。
本図は九相を一画面にまとめるように描いたもので、六道絵と呼ばれる15幅組の絵のうちの1幅です。
仏教では、人々は善悪の業によって六つの世界を巡ると考えられてきました。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つです。迷いをもったままこれらの世界を次々と生まれ変わっていくことを輪廻転生というのです。本図はその六つの世界=六道の様子を表した絵のうち、人道を表した4幅の一つで、不浄相、人の体の穢れについて描いています。
上から下へ時間が進んでいくように描かれますが、最上部では亡くなったばかりの女性の遺体が野辺に横たえられ、その真上で桜の花が散っています。大変に細やかな筆致で花びらが風に舞う様子が表されます。
本図の中程には紅葉も描かれており、単純に時間の推移を表したようにも見えますが、わざわざ花の散る様子を描いているのですから、やはりそこには「はかなさ」が象徴されているとみていいでしょう。美しさばかりではない、世の無常を感じさせるものとして、桜が選ばれていることになります。
長くなりましたが、仏教絵画に表された桜について見てきました。背景に何気なく描き込まれたようでいて、そこには宗教観を反映した象徴性が与えられている、ということになります。
仏教に限らず、宗教に対する関心が薄くなってしまった現代では、絵に込められたこのような意味も見過ごされがちです。美術作品は単に視覚的に鑑賞するばかりではなく、作られた時代の思想を理解することが重要となる、ということを再認識していただければと思います。どうしても小難しい話になってしまいますが、それが分かれば、作品鑑賞もより面白くなっていくはずです。