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臨川茶室方丈日記「春風」2021.2.10
埼玉県八潮市 吉田普彩先生の茶道教室、二月二回目。
今日は、他の生徒さんが帰られ、若先生宗看先生も昼食の準備に台所へたたれ、普彩先生と二人きりになり、一対一で稽古をつけていただきました。
まだまだ、初歩的なことと大まかな流れを、宗看先生にお習いしているので、
普彩先生の前に一人座り、直に教えていただくことはめったになく、一つひとつの動作に厳しい声が飛んできました。
“自然に!”
“やさしく!”
“そうじゃなくて、こう!”
“もう一回!”
“汲まずに、汲む!” ???
教室に通いはじめてちょうど一年。まだまだ頭で考えて身についていないから、足はためらい、手は止まる。
普段の、和やかな静かな佇まいの普彩先生とはまるで違い、
時間も息をひそめ、何ものも挟まない真剣勝負に、私は蛇に睨まれた蛙のように、
身体の力が抜けそうになるので、背筋を伸ばしてグッと肚に力を入れて、最後まで持ちこたえた。
お稽古の後で、
“できないのではなく忘れているのだから、思い出しながら繰り返し繰り返し、身体に染み込ませて、そうして、道理を身につけ心を養うのです”
“道理を身につけ、心を養う”という言葉に、
それがよくわかる、普彩先生に以前お聞きした話を思い出しました。
お庭を竹箒で掃く時に、竹箒をクルクル回しながら掃くそうです。
そうすると、竹箒もクセがつかず傷まず、ふんわりした当たりになって庭の苔も傷まない。
竹箒も生かし苔も生かす、それが普彩先生が言われる“やさしさ”。
また、この世界の大自然には作為がないのだから、普彩先生が言われる“自然に” は、作為を無くすこと、つまりエゴをとることを言うのだと思います。
それが、“汲まずに、汲む”というように、
一度“非ず”否定が入って、作為のない真理の姿になるのです。
実際に、水瓶の水を汲む時、水に柄杓がすっーと沈んでふうっと浮き上がりを、目の前でやって見せてくださいました。
その他にも、一つひとつ見せていただく所作に、自分の動きがいかに力が入り鯱ばって、気が散漫しておろそかになって、変についているクセで動きが不自然で道理にかなっていないことが、多々わかりました。
そういうエゴだらけで、相対する人や物を生かそうとする気持ちがいかに欠けているかが、ようくわかりました。
本日のお茶室の掛け軸「春風」。
強く「春風」が吹き、大自然は動き出す。
まさに、強烈に気づかされたことから始める人生の出発、
「春風」が吹いた。
すべてを生かして作為なく道理に沿う「春風」に、私のエゴが激しく吹かれて。