ぼくはこんな人が苦手みたいです。
こんばんは。中村です。
きょうの授業に来たゲスト講師の方が、「この人苦手だーーー」という方で、
授業中ずっと、イライラしたりモヤモヤしたり不快になったり不安になったり悲しくなったり怖くなったりと、
いろんなネガティブな感情を持ち続けた105分を過ごしました。
ぼくの感情コップが満杯になって、動悸がしたり気持ち悪くなったりもしちゃたりと、なかなかのネガティブ体験でした。
体験としてとても大きかったので、「なんでここまでしんどかったのか」を探求してみました。
とはいえ、ネガティブな感情のオンパレードで、あまりまとまっているとは言い難いので、
読む方はそこをご了承いただければと思います。
【目次】
授業の概要
苦手な要素
⒈何をやってきたか、を権力と共に語っていた
⒉対話の意思が感じられなかった
⒊自分の取り組みを盲信していた(ように見えた)
共感している人がいないという恐怖
感情と距離をとってみる
他人は鏡
授業の概要
授業の講師は、樋口健夫さんという方でした。
樋口さんは、アイデアマラソン、という発想法を考案した方で、
今回の授業もそれについてでした。
アイデアマラソンとは、"毎日たった15分から30分、自分の考えを書き続けるという具体的思考のトレーニング"(上記サイトから引用)です。
大まかな流れとしては、
・樋口さんの経歴について
・アイデアマラソンの概要
・実際に体験してみる
・アイデアマラソンの導入事例
という感じでした。
さて、ここから、なるべく具体的なエピソードとともに
ぼくがどんなところに苦手意識を感じたかを書いていきます。
ここから書くことは、あくまで全て僕の主観であることを、先に確認したいと思います。
違うように受け取った人もたくさんいると思うし、そういった方々を否定するつもりは一切ありません。
⒈何をやってきたか、を権力と共に語っていた
授業の中で、講師の方が、自分が「やってきたこと」について語る場面が多くありました。
例えば、過去に20億の商談をサウジアラビアで取り付けたというエピソードや、
異例の速さで海外勤務を志望したことなどが、
繰り返し講義の中に出てきました。
また、講師の方が自分自身について、あるいはアイデアマラソンについて、数字や固有名詞と共に語ることも、多かったように思えます。
例えば、ジャパネットたかたで、多くの社員にアイデアマラソンを実践してもらったことや、
大学の授業で300人(?)の生徒にアイデアマラソンを半年間続けてもらったことなど、です。
これらのエピソードは全て、講師の方やアイデアマラソンに対する権威付けのために語られているような印象がありました。
「私はこれだけのことをやってきた」「アイデアマラソンはこんな有名な人もやった」「これだけたくさんの人がやっている素晴らしい取り組みだ」
一方で、実際にこれらを実践した方々にどんな変化があったのかは、ほとんど語られず、
アイデアマラソンの効果は、非常に抽象的であったり、
あるいはこれのおかげで20億の商談をゲットした、みたいな、飛躍した形でしか伝えられませんでした。
もちろんこの取り組みを広めていくために、
ある程度の権威づけが必要なことは理解できます。
ですが、取り組みにまつわる権威が示されるばかりで、
取り組み自体への理解を促すような事実がほとんど示されなかったことは、
とても残念だし、不信感を抱いてしまいました。
⒉対話の意思が感じられなかった
授業を通じて、講師の方から対話の意思が感じられなかったことも、とても悲しかったです。
例えば、授業の最後の質問の時間では、
質問が終わる前に話し出したり、
講師の方の、質問への返答が終わり次第、一方的に次の質問者を指名したりと、
学生側、質問者側のアウトプットに対する姿勢がとても杜撰でした。
また、授業全体として、学生側が考えていることに焦点が一度も当てられなかったこと、
それを知ろうとする意思も感じられなかったことも
ある種の、対話への拒絶と捉えてしまいました。
名前には「ワークショップ」と冠しているのに、一方的に講師の方が話すばかりで、
ぼくが感じている疑問や意見を表現できる場は、
最後の5分の質疑の時間くらいでした。
でもこれについては、対大人数になるとどうしても限界があるし、
何より普段の授業もわりとそんなものなので、もう少しぼくが感じた違和感を探求する余地がありそうです。。。
⒊自分の取り組みを盲信していた(ように見えた)
もう一点、ぼくが違和感を持ったのは、講師の方が自分の取り組みを「絶対に正しいもの」だと盲信していて、
それを疑っている様子が一切見られなかったことでした。
ここまで言い切るのはちょっと飛躍があるかもしれないので、具体的なエピソードを書いていきます。
講師の方が、この取り組みを企業でやったときのエピソードを話していました。
その中で、「企業の研修で行うと、だいたい70%くらいが続ける」「だが、継続してやるサポートシステムを行うと、ほぼ100%続ける。落伍者なし。」という発言がありました。
ぼくはこの、「落伍者」という表現が、とても怖かったです。(実際に聞いたときに身震いしてしまったし、鳥肌も立って、動悸も早くなってしまいました)
「落伍者」ってかなり強い表現で、「落ちぶれてしまった人」みたいなニュアンスがあると思っています。
別にこの取り組みをやろうとやるまいとその人の自由なのに、途中で続けないという選択をした人を「落伍者」と呼ぶところに、
自分の勧めている取り組みを盲信している姿勢みたいなものが見えたように思えました。
また、上で述べている「サポートシステム」について、別の部分で、「メンターが続いてるかどうかを定期的に声かけし、やっていない人を説得する」ということを言っていました。
ここでも、「説得」という言葉が気になってしまいました。
「動機付けする」とか「後押しする」ではなく、「説得」。
ここにも、絶対全員やったほうがいいんだ!と、盲信している姿勢を感じてしまいました。
共感している人がいないという恐怖
1〜3について、モヤモヤしたりイライラしたり、悲しくなったりしていた105分間を過ごしていたのですが、
その感情を誰とも共有できていないのかもしれない、
こんなことを思っているのは自分だけかもしれない、という
恐怖も、同時に感じていました。
ぼくはこの授業でこんなに不快感を持っているのに、
周りの人は講師の方の指示にもちゃんと従い、
また授業の最後で、今後も連絡を取りたい(前述のサポートを受けたい)人は、メールアドレスを書いてね、と言ってメモ帳が回されたのですが、
連絡先を書いている人も一定数いました。
上に書いたことはあくまでぼくの好みや感情の問題なので、
全員と共有できているとは、当然思っていません。
でも、もしかしたらぼくが異常なんじゃないかと、
誰もぼくのこの感情をわかってくれないんじゃないかと思い、
それがとても恐ろしく感じられました。
感情と距離をとってみる
さて、つらつらと恨み言(?)みたいなネガティブな感情を吐き出してしまいましたが、
書けてよかったなあと思います。
というのも、授業中しんどくなってしまったときに、
「なんでぼくはこんなにしんどくなっているんだ?」
と疑問に思い、それを探求するモードに入ったことで、
ちょっと自分の状態を客観的に見ることができたからです。
それによって、感情そのものと、少し距離をとって向き合うことができました。
何かしらの形で自分の感情とちょっと距離をとることで、
その気持ちに巻き込まれ過ぎなくなる、というのは、一つ大きな発見でした。
他人は鏡
また、同時に、他人って鏡だなあと思います。
上にあげた3つの要素、どれについても、「ぼくもそういうときあるわーーー」と思っていました。
他人を批判するだけで終わらず、そのベクトルをちゃんと自分にも向けたいし、
でも「ありたい自分」になりきれない自分も受け入れたいと思います。
それにしてもしんどかったし、
しんどかったことでnoteを書くのは、これっきりにしたいなあと思います。
おわり。