ぼくの自己紹介と「これまで」と「これから」ーかけがえのない、たったひとつの物語ー
こんにちは、中村彬裕(なかむらあきひろ)です。はじめましての方は、はじめまして。そうでない方は、いつもありがとうございます。
まずは、簡単に自己紹介させてください。
大学4年生で臨床心理を学んでいます。ツクルバとcotreeでインターン中。4月からはツクルバで働きます。好きなものはヒップホップや現代アート、あとマーベルの映画、あと餃子やお酒などなど。よく喋るし、よく笑います。天然パーマがコンプレックスです。
さて、今回はまとまった形で自己紹介(という名のぼくの物語)を書こうと思い、このnoteを書いています。
書こうと思った理由は、主に以下の二つ。
👉たくさんnoteを書く中で、「なかむらって結局どういう人なの?」ということがわかりにくくなっていると思い、改めてお伝えしたかった
👉過去のいろいろなことが整理できたり意味付けできたりする中で、これまでについて時間をかけてまとめてみたかった
じっくり丁寧に具体的に、これまでのことを振り返りながら、言葉にして、物語を紡いでいこうと思います。
ただとても長くなってしまったので…!以下のざっくり内容まとめと年表、目次を活用しながら、読みたい部分をピックアップして読むのもおすすめです。
ざっくり内容まとめ↓↓
中高時代の環境に閉塞感を感じていたぼくは、大学に入ると東北やオランダなど、たくさん外へ飛び出すようになる。そこで初めて人と心から関わり、他人を傷つけたり、自分も苦しくなったりしながら、「優しさって何だろう」という問いに向き合う。それは「相手の意思を信じ、尊重すること」という仮説を持って、そんな風に人と関わり続けたいと決めた、という話。
年表はこんな感じ。数字は見出しと対応しています。
ではでは、ひとつよろしくお願いします。
1.「人間いつ死ぬかなんてわからないから、明日死んでも後悔しない人生を生きよう」
3兄妹の真ん中として生まれたぼくは、小さい頃から人と関わることが好きな、明るい子どもでした。
親の意向で、最初は嫌々はじめた中学受験の勉強。当初は嫌すぎて、塾のテキストをびりびりに破いたりもしていましたが(笑)
塾に友達ができると徐々に勉強が楽しくなっていったことを覚えています。受験直前には塾の先生も友達も大好きになっていました。
受験勉強の末、神奈川県にある、私立の中高一貫の男子校に通うことになりました。
中学・高校生活は、ひたすらに楽しかったです。スクールカーストのようなものもあまりなく、オタクもスポーツマンもガリ勉も、みんな認められているような雰囲気でした。
「おもしろいことをしよう!」「おもしろいことしてる奴が最強!」みたいな部分があり、とにかく毎日ゲラゲラ笑いながら過ごしていました。
高校の文化祭後の写真。毎日が文化祭みたいに、バカ騒ぎしていたなあ。
ただ、今振り返ると、同質性が高い環境に対して、なんとなく閉塞感を感じていたようにも思います。
私立の中高一貫校ということで、それなりに裕福で、教育熱心な家庭が多くて。親は父も母もいるのが当たり前だったし、小さい頃からピアノやバイオリンの習い事をしていた子も多く、受験の前は当たり前のように塾に通っていました。もちろん進学先は、ほとんど4年制の大学。
それがぼくたちの当たり前だったし、当たり前すぎて「当たり前」だとすら思っていませんでした。
そんな最中、高校1年生のとき、突然ガンという病気になりました。
ガンだとわかり、真っ先に浮かんだ気持ちは「なんでぼくが?」
それまでのぼくにとっては、元気で健康的な毎日が普通すぎて、それが失われうるものだなんて、想像もしていなかった。
手術と抗がん剤治療によって、半年弱くらいで完治はしました。でもこの経験でぼくは、「人間はいつ死ぬかわからない」と強烈に実感したんです。
そして、いつ死ぬかわからないからこそ、「明日死んでも後悔しない人生を生きよう」「やりたいことは、どんどんやろう」と思えました。
このポリシーは今でも、大きな意思決定をするときの、大切な軸の一つになっています。
2.「人と向き合うって、なんて難しいことなんだろう」
元々持っていた閉塞感もあり、ガンになってから、「いろんな人に会いたい」「いろんな場所に行きたい」という思いが強くなりました。
そんな中、大学に進学した直後、たまたまチャンスがあり、1年間休学して東北・被災地で学習支援のNPOでボランティア活動をすることに決めました。
震災後に一度ボランティアとして行った被災地で、何もできなかったという後悔があったこと。そして世界に行く前に日本のことをもっと知りたかったという気持ちが、決断の背景にあります。
東北では、それまで出会ったことのない人たちと関わる機会がたくさんありました。
仮設住宅で暮らす中高生、その親御さん、おじいちゃんおばあちゃん、漁師のお兄さん、定食屋のおばちゃん、高卒で働いている同世代の子。
どの出会いも貴重で意義深くて、少しずつぼくの世界を広げてくれました。
気仙沼のみなとまつりというお祭りの写真。3時間踊り続けるというタフなお祭りだけど、とにかく楽しかった。写真の躍動感よ。
ただ、自分の意思で初めて実家を出て、地方に住み、他人と暮らすという環境には、当然難しさもあります。
それまではレールに沿っていれば安泰だったのに、急に自由になって「何がしたいの?」が問われるように。ただ「知りたい」という気持ちだけで東北に来たぼくは何をしたらいいかわからなかった。
学校の中では、ぼくが得意な「勉強」が一番重要な評価軸だったけど、外に出ると、それはあくまで得意・不得意の一つでしかないことに気づかされて。
どんどん自信を失ってしまって、苦しい時期もたくさんありました。「何しにわざわざ東北まで来たんだろう」と考えてしまう夜も、少なくなかったです。
思えば、このときがぼくにとって初めての「人と向き合う」経験だったのでしょう。
そんな中で一緒に活動していたNPOのメンバーには、本当に救われました。
ぼくがいた、気仙沼のNPO底上げのメンバー。ぼくのお別れ会の後の一枚。
シェアハウスで共同生活をしていたので、彼らとはほぼ四六時中一緒にいる日々。
当初は、とにかく自由で何事にも全力な彼らにどう接すればいいか分からず、戸惑うことも多かったです。プライドで自分を守って、悩んでいること・苦しんでいることを隠そうとしていました。
でもずっと一緒にいるから、どうしようもなく、見せたくない自分、隠したい自分が漏れてしまって。
何もできなくて、それでもプライドが捨てられないダサい自分
うまくいかなくて苦しんでいた自分
そしてその中でもやりたいことを見つけて少しずつ前向きになれた自分
彼らには、そんな自分のさまざまな側面を知ってもらった上で、全部受け入れてもらえたんです。
おかげで、ぼくにとって東北は、「どう見られているかな」「どう思っているんだろう」みたいな気を使わないで、安心して過ごせる大切な居場所になっています。
それは今も、ずっと同じ。本当に感謝してるし、これからも大事にしたい繋がりです。
3.「もっと優しくなりたい。もっと寄り添いたい。もっと人の話を聞きたい。」
東北から帰ってきてからも、人への好奇心は相変わらず健在で、とにかく色んな場に出かけて、色んな人に会うようにしていました。
東北での学習支援の経験から、なんとなく「教育」というテーマを探求したいと思っていたので、学校外の教育現場で、中高生や、同じように教育に関心がある人たちと関わる機会が特に多かったように思います。
特に長く関わったのは、NPOカタリバが運営する、貧困世帯の子どものための学習・居場所支援の施設であるアダチベース。合計で1年半弱ほどの間、週3〜5回通い、中学生に勉強を教えたり、一緒に遊んだりしていました。
そんな活動の中で、一つの大きな壁にぶつかります。
それは「ぼくは他人に対して寄り添えない」あるいは「ぼくは人の話を聞けない」ということ。
ひとりで行ったパリの夕焼け。とても美しくて、同時に孤独を感じた瞬間だった。
アダチベースでは、他の大学生インターンのメンバーと共にプロジェクトを回していて、ぼくはリーダー的な役割を与えられました。
でもぼくは、チームで物事を一緒に進めるのに、自分が思っていることを彼らに説明することに必死で、彼らの意見や思いを引き出すことができませんでした。その結果、メンバーとの会話がぎくしゃくしてしまったり、そもそもプロジェクトがうまく進まなかったりしてしまった。
また、同じような経験は、当時付き合っていた彼女との関わりの中でもたくさんありました。
彼女の悩みの相談に乗るとき、丁寧に話を聞かず、すぐに「こうしたら?」「こういう考えもあるよ」というアドバイスをしてしまい、傷つけたことが何度もありました。彼女からも「自分の話をしたいだけでしょ」「わたしの話聞く気ないでしょ」と怒られることもしばしば。
東北にいたとき以上に色々な人と、より深く長く関わる機会が増えていく中で、この期間は、「ぼくは他人に対して寄り添えない」「ぼくは人の話を聞けない」という課題を感じていた時期。
あるいは、総じて「ぼくは優しくない人間なんだ」と思ってしまっていた時期でした。
優しくないからこそ、インターンでも恋愛でもうまくいかない。
だからぼくは、「もっと優しくなりたい」と強く思いました。「もっと人に寄り添えるようになりたい」「もっと人の話を聞けるようになりたい」と。
気仙沼の岩井崎という岬で、ゆったり友達の話を聞いている時の一枚。
そして、その時のぼくにとって、話を聞くこと、他人に寄り添うことは、すなわち自分の意思を抑えることでした。
自分が伝えたいこと、話したいことを我慢して、相手の話を聞く。自分が我慢して、相手にたくさん話してもらうことが「優しさ」だと勘違いしていました。
そうしてぼくは、優しくあるために、少しずつ自分の意思を我慢する術を学んでいったのです。
4.「今ちょっと悩んでて」「話聞いて欲しいんだけど」
大学3年生の時、オランダに1年間の留学に行くことに。オランダの教育に興味があったこと、そしてもっと色々な人と関わり、多様な他者に寄り添い、受け容れられるようになりたい、という気持ちが決断の背景にありました。
多くの人に応援され、送り出してもらって行った留学でしたが、特に前半はとても辛く苦しい時期でした。
留学先のオランダ・ライデン。寒く長い冬の夜はとても綺麗で、寂しかった。
日本にいた時は生活して、大学に通って、インターンしてという生活ができていたのが当たり前。だからこそ「人の話が聞けない」という課題にもチャレンジできていました。
でもオランダでは、海外・初めての一人暮らしという環境です。家事も全然できないし、買い物するにも周りの人と英語でコミュニケーションしないと何もわからなくて、生活するのでいっぱいいっぱいでした。
その上、大量の予習が必要で、ディスカッションも英語でテンポも早い大学の授業は、付いていくのに必死でした。というか、ほとんど付いていけなかった。
「ぼくならこのくらいできるはず」という理想と、現実の間のギャップに打ちのめされていました。
その上、元々なんの繋がりもないオランダで、頼れる人がなかなか見つからず、辛さやしんどさを自分の中にどんどん抱え込んでしまいました。
応援してもらった日本の友達には引け目を感じてしまってうまく頼ることもできず、一方でオランダで出来た日本人の友達に頼るのはプライドが許しませんでした。
「今ちょっと悩んでて」「話聞いて欲しいんだけど」そんな簡単な言葉が言えませんでした。
そのような状況が重なっていき、徐々に外に出ることや人に会うことが億劫になり、部屋に引きこもるように。最終的には授業にも行けなくなってしまいました。
適当な時間に起きて、ただYouTubeでお笑いの動画を見て、お腹が空いたらスナック菓子を食べて寝る、という生活。
「なんでわざわざオランダまで来て、こんなに無駄な時間を過ごしているんだろう」
「なんて価値のない生活を送っているんだろう」
「自分がこんなに根性なしで、どうしようもないやつだったなんて」
そんな思いが、頭の中をぐるぐる駆け巡っていました。
ある日、いつものように昼ごろ起きて、家のベッドからベランダを見ながら「あそこから飛び降りたら死ねるなあ」と想像していました。しばらくぼんやりベランダを眺めたあと、「もしかしたら俺、結構やばいかも」とようやく気づくことができました。
留学先の部屋。退去する時の写真だから、物悲しさが際立ってる。
そこからようやく少しずつ、周りの人に相談したり頼ったりし始めました。
「実は今、結構しんどくて…」
「あんまり授業にも行けてないんだよね…」
直接言うのは難しくて、最初はTwitterやFacebookでポツリポツリと。反応がなくてもいいや、どうにでもなれ、そんな気持ちでした。
でも、想像よりずっと多くの人から反応をもらえて。「話聞くよ」「わたしにもそんな時期あったよ」「しんどいんだね」。一つ一つの反応がとても暖かくて。
少しずつ、周りの友達にも伝えられるようになりました。あんなに言えなかった言葉も、口に出してみるだけで、少しずつ心が解けていきました。
留学時代、本当に支えになった友人たち。ありがとう。
そしてこの時に大きな救いになったのが、東北にいた時にできた繋がりでした。苦しみ、何もできていない状況のぼくに対しても、誰もが話を聞いて寄り添って、受け容れてくれました。
この時初めて、人に寄り添うとはどういうことか、優しくあるとはどういうことかが、身に染みてわかったような気がしています。
それは表面的に、ただ話を聞くことでない。
相手の存在に感謝し、相手に関心を持ち、耳を傾け、相手の思いや考えを承認すること。
それこそが、ぼくができるようになりたかった、他者へ寄り添うこと、あるいは「優しさ」でした。
5.「ぼくの人生が、ぼくに問いかけていることってなんだろう?」
帰国後、これまでうまく出来なかった分、そして自分がしてもらった分、他者に寄り添いたい、優しくありたい、過去の自分と同じように苦しんでいる人を救いたいと強く思いました。
その中で出会ったのが、オンラインカウンセリング(今はコーチングもやっています)を行っている株式会社cotreeでした。
ぼく自身、留学中に日本語でのカウンセリングを受けられないことにモヤモヤしていたこと、また社員の方々の雰囲気にも惹かれ、インターンとして関わらせてもらうことに。
同時にこの時期は、周りにいる悩んでいる人を積極的に気にかけ、相談に乗ったり話を聞いたりと、自分にできることはしようと思っていた時期でもありました。
悩んでいるとSNSで呟いている人に声をかけてみたり。大学で学んだカウンセリングの技法を実践してみたり。
ようやく分かりかけた「優しさ」を、とにかく誰かに届けようとしていました。
ぼくがしたような苦しい思いをして欲しくない。「死ぬほど辛い」と思う人が1人でも減ったらいい。そう思っていました。
cotreeのメンバーとの一枚。翌日二日酔いになりました。
ただ、そんな思いでインターンしたり人と関わっていたりしていても、ずっと漠然としたやりきれなさを持っていました。
オンラインカウンセリングの仕組みを作っていても、当然全ての人に届けることは出来ないし、届いたとしても救うことができない人はたくさんいます。
日々いただくお問い合わせ。ユーザーさんの声。友達の言葉。
嬉しい声もたくさんある一方、まだ価値が届けられていない人も、本当にたくさんいます。全ての人の力になることなんて、当然できませんでした。
また、個人としても、ぼくなりに一生懸命寄り添っても、たった1人の友達を救うこともできませんでした。救えないどころか、救いたいはずの相手を傷つけてしまうこともあって。結局ぼくは、誰かを傷つけないと生きられないんだ、と自分に絶望する夜もありました。
そもそも、他者を「救える」なんて思う事がおこがましいのかもしれません。
「どうしてぼくは他者に寄り添いたいと思うのだろう?」
「死ぬほどしんどくならなければ、それで本当に幸せなの?」
最初は自分のできなさ・課題感からひたすら考えてきた「寄り添う」「優しくある」というテーマに、初めてじっくり向き合い始めました。ちょうど就活のタイミングだったこともあり、cotreeの方々に助けられながら、少しずつ内省を深めていきました。
そのプロセスは、「ぼくの人生は、ぼくに何を問いかけているのだろう」という問いに向き合うことでもありました。
オランダ・アムステルダムにある現代アートの作品。現代アートはぼくに問いを投げかけてくれる気がして、とても好き。
6.「自分のやりたいことを表現できる人生が、幸せである」
「ぼくの人生が、ぼくに問いかけていることとは?」
その問いに向き合う中で気づいたのは、自分のやりたいことを表現できる人生が幸せだ、とぼくが信じているということです。
「こんな風に働きたい」
「あんな家で暮らしてみたい」
「今日はハンバーグが食べたい」
一人一人が、自分のやりたいことができるような、自分の物語を自分で紡いでいけるような人生が、ぼくが信じる幸せの一つの形。
小さなことでも大きなことでも、意思を表現することを、ぼくは大切にしたい。表現された誰かの意思を、あたたかく受け止めたい。
そう心から思います。
そして同時に思うのは、人がやりたいことに挑戦していく、自分の意思を表現していくためには、安心できる・寄り添ってもらえる居場所のようなものが必要なのではないか、ということ。
もちろん、いつもやりたいことが実現できるわけではありません。そもそも、やりたいことがない・やりたいことがわからないときもあるでしょう。
だからこそ、意思が生まれるまで待ってくれる。表現された意思を受け取ってくれる。そんな安心できる居場所が、大前提として大切なんだと感じています。
「安心できる環境があることで、他人からの見られ方や場の雰囲気を気にせずに自分のやりたいことを表現でき、それが幸せな人生につながる」。
これはあくまで仮説ではあるものの、納得感を持って今のぼくが信じているビジョンです。
岩手・大船渡の日の出。三陸は海から太陽が上がるんです。
そして、「やりたいことを表現したい」という気持ちは、ぼく自身の欲望でもあるなと感じています。
「寄り添う」「優しくある」ことを意識する中で、少しずつ周りの空気を読むようになり、自分の意思を表現することが減っていきました。
「言いたいことあるけど、今は我慢しよう」
「ここは空気を読んだ方がいいな」
「本当は嫌だけど、笑ってごまかそう」
そんな風に自分の気持ちを我慢することが優しさだと信じてきたけれど、ぼくだって、ぼくのやりたい気持ちを伝えたい、実現したい。
その意味でこのビジョンは、ぼく自身が心から望んでいることでもあるのだと思います。
7.「誰もが意思を表現できる世界を作りたい」
そんなことを思い、来年の4月から、株式会社ツクルバで働くことに決めました。
ツクルバの全体会。毎月みんなで集まって、みんなで写真を撮るの、結構好き。
ツクルバは、「住む」「働く」ことにおける選択肢を増やし、一人一人の自分らしい選択、自分の意思に沿った選択を支えています。
サービスとしてだけでなく、組織としても、一人一人のビジョンや意思を大切にしてくれる環境です。
その中でぼくは、仕事の中だけではなく、生き方として、色々な人が自身のやりたい気持ちを表現することを支えながら、ぼく自身も自分の意思を表現できるようになりたいと思っています。
「これからも、よろしくお願いします。」
長い物語になってしまいました。ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
書いて思ったことは、大きく二つ。
一つは、いろんなことがあったぼくの24年間を一つの物語として描こうとすると、どうしても切り捨てられてしまう部分があること。
このnoteは、これまでのぼくの人生をある一つの切り口から見たとき、こういう語りをすることができる、という話でしかありません。もちろん一つの統合された物語として描くことは、わかりやすさのためにはとても大切。
でも、ここに描写しきれない部分、伝えきれない部分もたくさんあるということは知っておいていただけたらと思います。
もう一つは、月並みですが、ぼくは本当にたくさんの人に支えられて生きてきたんだなあ、ということです。
「あの出来事がなかったら、今の自分はここにはいなかった」
「あの出会いがなかったら、生きていたかすらわからない」
そんなかけがえのない出会いがたくさんあったからこそ、今のぼくがある。その事実は絶対に忘れないでいたいなあと思いました。
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これからも、いろんな人の物語と交差したりすれ違ったりしながら、ぼくの物語は続いていきます。いろいろな人や価値観との出会いがたくさん待っているでしょうし、もうすでに出会った人たちとも、改めて出会い直すこともたくさんあるでしょう。
そんな未来に、ぼくはとてもワクワクしています。
人生初マラソンのとき。この後ヘロヘロになります(笑)辛かったけど、足を動かしていればいつかゴールにたどり着くと学んだ。
これからも、中村彬裕をどうぞよろしくお願いします!最後までお読みいただいて、本当に本当に、ありがとうございます。
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Twitterもやってます。書いたnote・読んだnoteのシェアや、noteのタネになりそうなつぶやきをしています。下らないこともつぶやきます。
よければフォローしてみてください。
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トップ画像は、cotreeのみんなで互いを褒め合う会をしている時の写真。こんな風に笑顔で過ごせる居場所があること、とても幸せだなあと思う。
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cotree advent note。cotreeの仲間と一緒だったから、noteを書き続けられました。みんなとてもいいnoteを書いてます。ぜひ。