いとしき隣人へ
ずいぶん前のことだけれど、そばにいてくれるだけでいい人がいた。
話を聞いてくれるだけでいい。
ご飯を食べるときに同じテーブルにいてくれるだけでいい。
横断歩道のないところを一緒に渡ってくれるだけでいい。
泣いてる私のとなりに座ってくれるだけでいい。
文句の止まらない私に大量の副流煙を吸わせても、やる気が出なくてもだもだしている私にスマホゲームの音を聞かせても、締め切り前に必死にレポートを終わらせようとしている私の目の前で寝ていてもいい。
そこにいてくれるだけでいい。
私に何も施してくれなくていいから、ただいてくれるだけでいい。
《ただいるだけの人》を《ただいるだけ》にする、というのは大変難しいことで、ただいるだけの人に全幅の信頼を寄せている場合、独り占めしたいとかいなくならないでほしいとか、ある種その関係を破滅へと向かわせる感情を生み出す危険性がある。
私はそうだった。
彼は、シュッとした見た目で人当たりも良く、外面もよく、声もよく、能力も高く、誰にとっても良い人であった。
けれど実際は他人に興味がなく、無口(本人曰く省エネ)だし、ようやく口を開いたかと思えば悪口ばかり、やればできるのにやらない、なんていうトンデモ本性を知っている私にとっては、彼はダメ男にしか映らなかった。
学校中の女の子の注目の的であったし、そこここで好きになっただの彼女いるのかなぁだのと聞こえてくるたびに、傷つくからやめたほうがいいよ、と言って回りたい気持ちになった。
なぜ私がそんな彼の本性を知っているのかというと、それは大学の入学式まで遡る。
その日、私は意気揚々と会場に行ったものの、大きな敷地の裏手から入ってしまったようで、入学式の案内もなければ人もおらず、完全な迷子になっていた。
外周数キロを歩けばよいだけなのだけれど、家賃を抑えるために駅から遠いアパートを選んだことで既にずいぶん歩かされており、慣れないパンプスを履いた足はズキズキと痛みを訴え、式まであと30分もない中歩き回る気力はこれっぽっちも残っていなかった。
ゆっくり行って保護者席からでも見ていれば、もし何か連絡事項等があっても対応できるだろう、と思ったので、とりあえずパンプスを脱いで花壇の端に腰掛けた。
式が始まってしまった。
大学生初日からこんなことになってしまっている自分に、だんだんと情けなさを感じてちょっと目の端が潤みだしたとき、私が入ってきた門から一人、スーツ姿の男が入ってきた。
男はこちらを見て、時計を見て、また私を見て、そしてずんずんとこちらに近づいてきて言った。
「入学式は?」
「もう始まってますよ、入り口はこの反対側みたいです」
「は?俺がいるの裏手?」
「そうです」
「じゃあ帰るか」
そもそも開会ジャストな時間に来ているのだから、じゃあも何もないんじゃないか、と思ったのだけれど、どうやら話を聞いていると、本人としては正面から入れていれば出席するつもりだったらしい。
「俺、帰るけど」
それは?着いていっていいってこと?
私一人ここでめそめそしていても仕方がないので、とりあえず、帰るといってまた来た道を引き返した彼について行くことにした。
彼は駅には向かわず、ずんずんと街の奥へ奥へと進んでいった。
また少しずつ足が痛みだしてきたけれど、でもなぜか彼の少しあとを歩くのをやめられずにいると、もうそろそろ限界かも……と思ったところで彼の歩みが止まった。
どうやらここが彼の住んでいるアパートらしく、彼は一階のいちばん手前の部屋の扉を開けた。
ここまで何も考えずにただついてきてしまったので、どうしようかと佇んでいると、彼は「入らないの?」と一言だけ声をかけてきた。
入っていいのかよ。まあついてきたの私だけどさ。
彼の部屋は空っぽだった。
ひとつ段ボールがあるだけで、それ以外には本当に何もなかった。
もちろん、冷蔵庫もベッドもテレビも。必要最低限以下。
彼は部屋に上がり込んだ私に構うことなく、壁にもたれて座り、本を読みだした。
いやいやこいつなんだよ、私上がってていいのかよ、名前も知らない人間をよく上げられるな、と名前も知らない人間に勝手についていった自分は棚に上げて、勝手なことを思った。
「表出て左に自販機がある。本はそこの段ボール。それ以外はない」
投げっぱなしの言葉を拾って組み立て、読解してみたところ、どうやら私はここにいていいらしい。
じゃあひとまず飲み物を、と外へ出た。
こんなにすぐのところに自販機なんてあったら、毎日ジュースばっかり飲んでしまいそうだ、彼はどんな飲み物が好きなんだろうか、なんて考えながら自販機の前まで来て、ふと、冷蔵庫どころか飲み物や食べ物すら見当たらなかったな、と気がついた。
家に上げてもらうお礼に近くのコンビニで何かお菓子でも、と思ったのだけれど、絶対に迷子になってここまで帰ってこられなくなる自信があったのでやめた。
「どっちがいい?」
「コーラとファンタで選ばされても」
「じゃあ水買ってこようか」
「コーラでいい」
「はい。本当は何がよかったの」
「いらなかった」
「じゃあこれもいらないね」
「それはいる」
ずいぶん意味のわからない人間だなぁ、というのがここまでの一貫した印象で、でもこの意味のわからなさがこの日の終わりには面白くなってしまっていた私は、それから頻繁に、彼と行動を共にするのだった。
彼は私のことを下の名前で呼んだ。私は彼をあだ名で呼んだ。
彼にも私にも友達はできたけれど、ふたりだけでいる時間も多かった。
私がひとりでいると彼が寄ってきて、彼がひとりだと私はとなりに行った。
よく彼の家に行った。よく私の家に来た。
よく彼とご飯を食べた。彼の多すぎる好き嫌いを、私は全て把握していた。
よく一緒に寝た。同じベッドで寝た。彼は暑がりで寝相が悪かった。
彼が3年生の夏休みにバイクを買ってからは、後ろは私の指定席になった。
本当に私たちは、ずいぶん一緒にいた。
それだけ一緒にいると、私は自然と、彼を好きになった。
好きになったら、手を繋ぎたくなった。意識して触れたくなった。
お互いの呼び名に意味を持たせたくなった。
ふたりでいる時間に名前を付けたくなった。
家に来たら何かしらあってほしくなった。
好き嫌いに応えたご飯には愛を感じてほしくなった。
一緒に眠る時には気持ちを高ぶらせてほしかった。
バイクに乗る時に腰に回す手にはときめきを感じてほしくなった。
けれど、そういう気持ちを彼が求めていないことも知っていた。
誰ともそういう関係を望んでいないことを知っていた。
私も例外ではないこともずっと前から知っていた。
私だから、知っていた。
それなのに、私の言動の端々には、満たされたい気持ちが滲み出てしまうようになっていた。
とうとう隠しきれなくなってしまったのだ。
ほどなくして、彼は私の前からいなくなった。
どんな連絡手段からも姿を消し、友達にも伝えず、職場も去り、実家へも帰らず、私がアクセスできる全ての世界から彼が消えた。
「うちら、付き合ってると思われてるらしいよ」と、大学生の頃に冗談半分で話した翌日から丸々1ヶ月彼が失踪したあの時に、全てなかったことにしてしまえばよかった。
あの1ヶ月で私はボロボロになった。
彼がいないということだけで私は、私の世界のバランスを崩した。
この先は何が何でも彼を失うまい、と思っていたはずだったのだけれど、また私は頑張れなかった。
あの時、彼のいない世界で生きる苦しさを、嫌という程思い知ったはずなのに。
彼がそばにいてくれる世界でだけ、私は安全に生きていけた。
もう彼がいなくなってからそれなりの時間が過ぎ、私も少しずつひとりで生きることを覚えていることろだけれど、今でも彼がどうしているかはわからず、未だに私の心には、他の何者でも埋めらていない大きすぎる穴がある。
もう一度私の前に姿を現して、また一緒にいてほしいとも思うけれど、私があの感情を抱いてしまった以上、私たちは堂々巡りなのだと思う。
彼がいちばん忌み嫌う感情を私が抱いてしまった時点で、おそらく私たちの終わりは確定してしまったのだ。
よくある陳腐な話をするけれど、もしも神様とか流れ星とか、そういう願いが叶う何かがあるのだとしたら、私から恋愛感情をなくして、あの頃に時間を戻してほしい。
今度は上手に一緒にいるよ。
絶対に好きになんてならないって、
約束するから。
たのしく生きます