「結局、"NCRW"ってなんだろう」をひたすら綴る2,200文字
コーアクティブ・コーチングの何が好きかと言うと、その人間観だ。もっというと、通称 "NCRW" といわれる言葉だ。 僕の中で、この "NCRW" が「分かる」と「分からない」が、常に繰り返されている。曲者のくせに愛おしい、この人間観に持っている今の僕の想いを書き連ねてみようと思う。
「結局のところ "NCRW"って、なに?」と思っているコーチに向けて、共感と違和感の触媒になったら嬉しいです。
※この記事では、CTI JAPANの修了生としての個人的な見解をリスペクトの気持ちで表現するものであり、何かを教えたり強いたり、あるいは代表する意図ではないことを、あらかじめお伝えします。
"NCRW"に共感する気持ち
僕がCTIの基礎コースで初めて出会った"NCRW"を、コーチング・バイブルから引いてみる。
この文字から伝わってくるのは、人の大きさ、広がり、深さ。すごく清々しくて、やっぱりいい。
"NCRW"を受け取れない時もある、今でも。
その一方で、"NCRW"を受け取れない時がある。今でもある。
テレビのニュースをつけてみる。胸が締め付けられたり、憤りを感じる時がある。「この人、なんでこんな事するの???」って思う。そんな時、僕はその人に向けて、「もともと想像力と才知にあふれ・・・」などとは、思えないのだ。
コーチなのにそう思ってしまう自分に、憤りの矛先が向いたこともあった。このことを、マイコーチに話したこともあった。「こんな自分は、コーチに向いていないんじゃないか」って。まるで自分に違反切符をきったかのように。
書きながら、また「"NCRW"が分からない」寄りに、シーソーが傾きそうだぞ。
「もともと」に宿る力
こういう時は、コーチング・バイブルの出番だ。ところが、答えを求めて引いてみたとて、あの分厚い本の中に、わずか1ページしか載っていないじゃないか。こんな大事なことなのに。しかし、その中で僕が熱を感じたフレーズがあった。それは、
もともと。原文では "Naturally" に相当する。「すでに」「生まれながらにして」という言葉に似たニュアンスも感じる。
すぐに自分を他人と比較してしまう。あの人が持っているあの経験が羨ましい、あの資格が羨ましい。すごいな。自分は、全然足りてない。そうやって、他人と自分を差分評価しちゃう。自分に欠けているものを見つけ出し、自分の外にある何かを使って、その欠けを埋めにかかる。
そうやると、結局エンドレス。他と自分を比較して、自分の欠けを見つけて、欠けを埋める。埋めて繕った結果、結局誰になるのか?
そうではなくて。
「もともと」って、外じゃなくて中にあるってことなんじゃないか。擦りむいた傷は、やがてかさぶたになり、自ずとかさぶたが取れる日が来る。自分の中に、そういう力がある。すでに、もともと。
クライアントにも、コーチ自身にも、"NCRW"のスタンスをとることができる
CTIの基礎コースで、はじめて"NCRW"を知った。なんて素敵な考え方なんだろうと光を感じた。そして、「コーチングする時には、相手を"NCRW"のスタンスでいよう」と思った。
でも今、そこから少しアップデートされた感覚もある。
コーチが自分自身に対しても"NCRW"のスタンスでいる、ということも大事だと思う。
生きていて自分に欠けていることが目立って見える。自分よりもっといいコーチがいるって思ってしまう。その気持ちの存在を認めつつ、コーチとしての自分に、もともとあるのは何だろう?それをリソースとして認知できたら、コーチングの協働関係は、もっと強くなるんじゃないか。
コーチが自分自身に対して"NCRW"のスタンスでいることを選択できたら、好奇心、直感、視点の転換など、コーチングが変わってくるんじゃないか。そう、スタンス。
"NCRW"はルールではなく、スタンスなのではないかという仮説
"NCRW"という世界観を知り、コーチングを始めた自分は、当初、「"NCRW" を信じなければならない」とルールのように思っていたのかもしれない。だからこそ、信じられない自分に気づいた時、怒りの矛先が自分に向いた。
しかし、ちょっと今は違う。どのスタンスを取るか、ってことにも感じる。
例えば今、部屋の床にiPhone のケーブルを1本横たえてみる。床に線が引かれたように見える。線の向こう側は、"NCRW"のスタンスで居られる場。こっち側は、"NCRW"のスタンスで居られない場だとする。
自分は今、線のどちら側に立っているのか。そして、どちら側に立ちたいのか。どちら側に立つことを選択するのか。
僕は、これもコーアクティブ・コーチングでいわれる「自己管理」のひとつだと感じる。
やっぱり、分かると分からないが、季節のように巡っている
僕にとっての "NCRW"は、やっぱり、分かるし、分からない。もう少し言うと、問いと仮説がジャブジャブ湧いてくる。分かると分からないが繰り返される様は、季節のようにも感じる。
季節が一巡するごとに広がる年輪のように、分かると分からないを繰り返しながら、コーチとしても年輪が広がったらいいな、と思う。
今日も佳い日で。