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不合格くらって気づいたこと。今ほしいのは合格じゃない、圧倒的な合格だ。

ICF Credential Examを受験し、不合格になってから一晩経ちました。そして、不合格のおかげで、今ほしいのは単なる合格ではないと気づきました。圧倒的な合格がほしい。誰かにあてたnoteではないけど、たまにはそんなのもいいでしょう。自分へのエールとして綴ります。でも必要としているどなたかに届いたら嬉しいです。


試験には、2種類ある。通す試験と、落とす試験

私は前から、試験は2種類あると思ってきた。ひとつは通す試験であり、もう一つは落とす試験

「通す試験」とは、定員がないような試験で、ある一定の基準が満たされていたら合格をもらえる試験。

「落とす試験」とは、あらかじめ定員が定められている、入学試験のような試験。他の受験生と自分の順位、ポジショニングで決まる。

今回の試験は「通す試験」なんだろう。きっと定員はない。合格点に到達さえすれば合格であり、たとえ1点でも下回ったら不合格なのだ。

そういえば小さい頃、長野県と群馬県の県境に行ったことを思い出す。県境の看板の前で、右足で群馬県に、左足で長野県に立ち、「今、何県にいるでしょう?」なんて言っていた。県境のように、合格と不合格の間には極めて細いが確実な線がある。


ずっとほしかったのは、単なる合格だった。

合格がほしかった。合格点であれば、何点でも良かったのかもしれない。

私は、資格取得は完成ではなく始まりだと思っている。合格が祝福を受けるに値するものだと思うが、認定を受けた後、資格ホルダーとしての責任を背負う。その人生が始まる。昔どこかで書いたが、資格ホルダーが偉いという思いは毛頭ないことを、あらためて付言したい。

1日も早く、合格が、太鼓判がほしかった。合格であれば、よかったのかもしれない。


今ほしいのは、圧倒的な合格

太鼓判と表現したら、まだ息子が電車好きだった頃、駅を巡ってスタンプラリーをしたときのことを思い出した。スタンプ用紙の枠に、スタンプを押す。かすれたり、枠からはみ出たり、逆さになってしまったり。ときにはきれいにくっきり押せて、大喜びしていた。

今、自分がほしい太鼓判って?

「かすれているけど・・・まあ枠に収まっているっちゃあ収まっているから、うん、まあ、いいでしょう。ね。」

違うな、今自分がほしいのは、そんなんじゃない。くっきり、きれいに押された太鼓判がほしいのだ。圧倒的な太鼓判、圧倒的な合格がほしい。

そこには、プロフェッショナルとして胸を張りたい、という願いがあることにも気づく。今回の不合格とは、それに気づく入口だったのかもしれない。


マイコーチからの問いをもらうと、今までの延長上にいない気がしてきた

不合格になった夜、マイコーチからこんな問いをもらった。その夜はぐっすり寝すぎて、朝起きてから気づいた。

1回で合格せず再チャレンジすることは、これからの自分のコーチ人生にどんな影響を与えるのか?

コーチ人生。今まで、きわめて順調だったと思う。もちろん、いろんなことがあった。自分がコーチングという対人支援をするに値する存在か?と何度思ったことか。しかし、コーチングの現場に居続けることを選び続けた。CPCC資格認定もいただけた。順調に成長してきた。そして、天狗だった。

一方で今、その延長線上にいない気がする。一度壊れたものを、もう一度汗をかいて泥だらけになって、何かを再構築することにトライする時。胚胎期間の入口なのかもしれない。先が見えないチャレンジ。

そもそも「先が見えないチャレンジ」なんて何を偉そうに言うのか。コーチングを受けるクライアントさんこそ、先が見えないチャレンジに向かっているじゃないか。その姿を見て単に心を震わせるだけなのか?コーチが美しくチャレンジをしてどうする。

足掻け。

奇しくも3年前のちょうどこの時期、体調を崩してキャリアの歩みを止めたことにも重なる。自分が傷病休職するなんて、と壊れた。しかしこの経験無くして、コーチとしての人生は始まらなかった。足掻けてきたじゃないか。

マイコーチからの問いに、シャープに答えられない自分だが、マイコーチからの問いが触媒となって、こんな気持ちが湧いてきている。プロフェッショナルから問いをもらうと、こういうことが起こる。これがコーチングなんだと思う。


足掻く。足掻いて、圧倒的な合格に胸を張りたい。


今日も佳い日で。

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