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自分の旗印「自然に生きる、自然と生きる」って何? クライアントさんに訊かれて紐解いてたら湧いてきた、言語化へのヒント

コーチとして関わったコーチング・セッションで、クライアントさんから「『自然に生きる、自然と生きる』という旗印って、何ですか?」と訊かれました。そこへの想いを綴っていたら、よく伺う「気持ちを言語化したい」へのヒントも浮かんできました。

「自分の気持ちを言語化したい」という方に、届きますように。

( この記事は、クライアントさんのご了解のもと、公開しています )


クライアントさんから問いを受けるという新パターン?

コーチング・セッションでは、コーチとクライアント(コーチングを受ける方) との関係性が大切です。「はじめまして」から、人生の大切なお話を聴かせてもらうわけですから、私は、この関係性づくりはコーチの責任だと思っています。

今回のクライアントさんは、私のCTIコーチ紹介ページにある「自然に生きる、自然と生きる」という言葉を拾い上げてくださり、私にコンタクトをしてくださいました。

ふたりで対話を進める中で、クライアントさんから頂いたのが、冒頭の問いです。私は、クライアントさんが私にこう問いかけてくださったことが、関係性づくりのアウトプットのようにも感じて、とても嬉しく思いました。

「コーチングとは、コーチがクライアントに質問するもの」という解釈は真っ当だと思います。しかし、その逆があっても、私はOKだと思います。

私から出るものをクライアントさんが材料として扱い、クライアントさんの中で何か発見や理解の触媒になるなら。そう意図したうえで、そして当然ながらクライアントさんからのOKをあらかじめ頂いたうえでお答えするのであれば、それはコーチングだと、ICF認定コーチの一人として考えます。

では、「自然に生きる、自然と生きる」という旗印を、ジャーナリング的に紐解いていきます。の前に・・・


名刺に記した肩書き。それは「自然屋」

会社員で自然エネルギーの仕事をしていた頃、副業でコーチングをしていた僕は、会社のロゴがない自分の名刺を創ろうと思った。肩書きってなんだろう?そう思って頭に浮かんだ「自然屋」を肩書きとして記した。

昔、高円寺のイタリアン・バールに通っていた頃のこと。夜更けになると、ありものの食材で、店主がメニューにない料理をつくってくれた。看板とは裏腹にイタリアンらしからぬ料理を前に、カウンターに並ぶ常連さんたちと「まったくもう、何屋だよ」と笑いあった。

その「何屋だよ?」という問いが、なぜかずっと心に残っていた。

僕の仕事は、ずっと説明しづらい仕事ばかりだった。システムエンジニアといえば「機械つくる人?」「ホームページつくって」と言われた。ましてやコーチときたら「何のスポーツですか?」だし、シェア型書店の棚主をどこから説明したらいいんだろう。電車の車掌さんが羨ましかった。

その一言で言えない仕事を扱ってきた自分。くっきり説明できない仕事だらけの自分は、一体、何屋なんだろう。

ある時浮かんできた言葉が、「自然屋」だった。頭の中で、何がどう遷移したのか憶えていないのだが、その響きが、妙にしっくりきた。自然エネルギーの仕事もしているし、いいんじゃないかな。

名刺に「自然屋」と書いた。受け取ってくださった方は、たいてい「自然屋」って何ですか?と尋ねてくださる。そうやって何度もその話をしてきた。そうしているうちに、名詞だけじゃなく、動きのある動詞が欲しくなってきた。それが自分の旗印になる気がしてきた。


「自然」と「生きる」を、どう結うか?

「自然と生きる」

僕は、10代の大半を注いだスキーが大好きだ。だからこそ雪の降り方に敏感であり、そして、気候変動をリアルに実感している。「雪がきれいで、つめたい」って思える冬をつなぎたい。その気持ちが、僕を自然エネルギーの仕事に駆り立てた。だから、「自然と生きる」は大事な価値観だ。

「自然と生きることを大事にしています」と言うと、「無人島でサバイバルするんですか?」と訊かれることもあるが、そうではない。かといって、高速道路や飛行機の助けを借りた先にようやく対面できる大自然なわけでもない。

春の風が気持ちいいこと。梅雨に雨音を感じること。夏に聴こえるヒグラシの声。秋にサンマを焼く匂い。息を吐いて白いと笑い、霜柱を踏む感触を味わう冬。日々の暮らしにある、当たり前すぎる自然。見逃しがちだが気に留めて、生きていけたらいいなって思う。

今の子どもたちが、やがて誰かの親になる頃、彼らが彼らの子どもたちと一緒に「自然と生きる」を味わってくれていたらいい。そのために、僕ら世代で、できることをやりたい。だから、「自然と生きる」を大事にしたい。ピュアな願いだ。

だが、コーチとしての自分が、厄介な問いを投げかけてきた。それは、

・・・ちょっと待て、「自然と生きる」からハミ出ている願いは何だ?

「今の子どもたちが、やがて誰かの親になる頃、彼らが彼らの子どもたちと一緒に」を思う時、環境さえ準備されていればいいのか・・・?

なぜ、自分はコーチなのか?

何を願い、コーチングを生業としているのか?・・・そうか。


「自然に生きる」

この言葉も浮かんできた。これも大事だ。

一人ひとりが、それぞれを生きあう世界を創りたい。窮屈で、強制され、役割の鎧で身動きとれないよりも、それぞれがそれぞれらしく生きあう世界になったらいい。

「自然と生きる」も「自然に生きる」も、両方とも大事だ。だが、自分の外よりも、自分の内が先なんじゃないか。そう思って出てきたのが。

自然に生きる、自然と生きる

僕は、これを、自分の旗印だと思っている。自分の選択は、この旗印の前で胸を張れるものか?そんなことを思いながら過ごしている。

こんな僕だが、正直に言うと、ガソリン車に乗っている。でも、手入れしながら、大事に大事に乗っている。もうすぐ車齢14歳、98,000km間近だ。これも、僕にとっての「自然に生きる、自然と生きる」だと思っている。


遊びながら、言葉を結ったらいい

「自然に生きる、自然と生きる」という言葉を振り返った今。細々ながらも、物書きを仕事にしていて思うことを書いてみる。

出した言葉は、変わらない。しかし、人間は、常に変わる。

37兆の細胞が常に変わり続けている人間だから、眼の前の言葉をどう感じるか、常に移ろっても不思議ではない。だからこそ、「旗印」の言語化に正解は無いと思う。コーチングをしていて「気持ちを言語化したい」とよく伺うが、言語化された言葉の受け止め方は、日々変わる。

だからこそ、遊び心をもって、余白を持って、言語化を楽しんでみたらどうか。

たとえばこの記事で書いた「言葉を結う」という表現も、今この瞬間の遊び心から生まれた。本当は、「自然」と「生きる」を連結という表現を考えていたのだが、どうにも駅の連結作業を想起させ、機械感がある。それより、結うって表現だと、髪を結うような動きが出てくる。何より、響きがいい。

こんな具合だ。

自分の中で響く言葉があったら、遊び心をもって接してみてはどうか。もし、「自然を生きる」だとどうかな?とか。この響きも、また何か違う質感の気配がする・・・

人生は、壮大な言葉遊びの時間なのかもしれない。


今日も佳い日で。

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