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「写真の言語化」に関する一考察

言語化にまつわるエトセトラ

写真の言語化、みなさんはどう思いますか?

SNS界隈や写真コミュニティでも、写真の言語化について様々な議論を耳にします。言語化を楽しむ人、言語化によって気づきを得る人、そして言語化に違和感・抵抗感を持つ人、態度は様々。

その中で、抵抗感・違和感を持つ人のいう「観たままの感覚を大事にしたい」「視覚的な表現だから言葉にしないほうがよい」という意見ですが、自分には引っ掛かりがあります。

写真を観る立場としては、自分もその考えは理解できますし、写真の全てを言語化できるとも思っていません。ただ、写真を撮る立場の自分としては、写真を言語化することには大きな意味があると感じています

自分の考える「言語化の意味」

自分なりに「写真の言語化」を定義すると、自分が感じたその写真の良さを、エッセンスとして認識すること、だと思っています。

写真の良さを、たとえその一端だけであっても言葉にし、発することは、その良さを記憶し、それを始点に考えを広げること、そしてその良さを写真を撮ることに繋げていくことに必要な行為だと思っています。

言語化は非可逆圧縮だが取り回しが良い

確かに言語化をすることで、印象や感動の一部が失われるかもしれませんし、解釈を固定化してしまうかもしれません。それでも、言語化されたコンパクトな記憶はその後で役に立つと思っています。

SNSや写真展で触れた写真に感動したとして、曖昧としたイメージで記憶しておくよりは、言語化された印象は物理的に書き出すことができるのはもちろん、その言葉を折りに触れて思い出し、考えを広げていくことができます。それを繰り返すうちに、他の人の作品から受けた印象達が積み重なっていく、自分なりのテーマとなり、将来の撮影に繋げることができると思っています。

言語化の更なる意味

言語化には、自分の記憶や思考としての意味に加えて、他の人と共有できる点も重要です。

以前開催したワークショップで、ある写真家の作品展を参加者で観たあとで、どの作品のどんなところが好きで、それが写真のどの部分から由来するのか、具体的に言語化するワークをしたことがあります。

自分自身、そのワークを通して、他の方の視点や感情の動きや言語化されたエッセンスを聞きつつ、自分でも言語化していくことを通して、他の人の言語化のやり方から学ぶことはもちろん、自分の視点や解釈の幅を広がったと感じました。

また、そのワーク後に写真展の作家風に撮ってみようというフォトウォークを行いましたが、自分も参加者も、今までとは少し違ういい写真が撮れたし、そこにはその写真家のエッセンスを感じることがきました。

今でも、このワークショップで言語化した内容は自分の写真の撮り方に影響を持っていますし、アプローチは変えつつ言語化するワークショップを開いています。

違和感の向こうにあるもの

鑑賞者として言語化によって印象や解釈を狭められたり、陳腐なものにしたくはない、ということには、同意しかありません。また、自分でも他人でも言語化した言葉から受ける違和感にモヤモヤする気持ちもよくわかります。

ただ、これだけ毎日のように写真に触れられる・触れざるをえない時代においては、撮影者としてはただ写真を消費するのではなく、その印象の中から一部でも残していくことも必要なんだと思っています。

明日の写真のために

撮影機材が進化し、ドローンやAIが今まで実現できなかったイメージが身の回りに溢れる中で、普通に撮られた1枚の写真のクオリティーで勝負するのがますます難しくなっていきます。だからこそ、撮影者が日々何を考えどう撮り、何を感じて欲しいという意図が存在すること、それこそが人間が写真を撮る意味ではないでしょうか。

写真を観る際に、ぜひその感動や思いを言葉にしてみてください。それは、次の素晴らしい写真を撮るための大きな助けになるはずです。

また、もし身の回りに、少しでも言語化の感覚が近い人がいて、違和感を乗り越えながら話すことができれば、それは写真生活の大きな彩りになることでしょう。

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