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また京都が呼んでいる…のか。

糖尿病になってしなくなったこと、京都に行かなくなった。月一と言っていいほどの頻度で東京駅から新幹線に乗って向かっていた京都に行かなくなった。

糖尿病対処に心を奪われると、あれほど熱を上げていた京都にも足が向かわなくなるものかと、豹変する態度に我ながらゲンキンなものだと呆れるほどだったが、まあ、そういうこともあるのである。大袈裟だが、命に関わる(可能性のある)事態の出現に慌てていたのだから。それに追い打ちをかけるように「コロナ」もあったし。

京都で何をしていたというわけでもない。ただ街をぶらぶら歩くのである。そして小腹がすけばどこの街にもあるようなジャンクフードレストランに入って腹を満たすというのがお定まりのパターンなのだが、糖尿病になって、ジャンクフードであれファミレスであれ、今まで無意識に利用していた外食チェーンが同じような気軽さでは利用できなくなったという意識の変化も、京都から足が遠のいた大きな理由だといえる。ざっくり言って、外食ができない。いや、食べられるのだが(毒ではないのだから)、だが、血糖値のことを思うと食べる覚悟が持てないのである。

京都では北大路バスターミナルをよく移動のベースにしていたのだが、以前はバスに乗る前に決まってその上にあるイオンモール北大路(ちょっと前までは「北大路ビブレ」だったな)で腹ごしらえをしたものだ。フレッシュネスバーガー、イタリアントマト、大戸屋、それと名前は忘れたが2階にある和食のファミレス(ミスド、スタバのことは語るまい、糖尿病なのだから)など、もう気軽には入れないのだと思うと食べ物のハードルを越えるのがシンドくなった。跳ね上がる血糖値が目に見えている食べ物、食事は避けたいし、一方で、血糖値を上げない、低糖質で、などとアンテナを張り巡らして食べ物を探し回るのも面倒くさい。😓 フレッシュネスバーガーなら「低糖質バンズ」、大戸屋だったら「おかずだけ」といったワザもありだが、必ずしも血糖値を上げないことが保証されている訳でもなく、それが糖尿病のためのダイエットとして推奨されることか、と言えば、安定血糖値至上主義者と化した今の私から見れば苦肉の策と言った以上の意味があるようにも思われない。

行かねばならない用件があるのならば、「苦肉の策」を弄する覚悟で新幹線に乗り込むのだろうが、私の場合はそうではなく、なんとなく街の空気を吸いたいが為に出かけるだけなのだから、自ずと、低くはないハードルを越えて京都に行くより、安定血糖値の方をより大切なことと、無意識ながら選択していたことになるのだろう。

そうこうしているうちに糖尿病発覚から一年。その間に血糖値対策として見直した食習慣、安定血糖値至上主義生活が奏功したのか、ここのところ、血糖値も生活も一山越したように安定してきた。すると、地下から鉱泉が湧き出してくるように、京都への思い、渇望がポツポツと心に蘇ってくるようになった。クリアしなければならない食べ物のハードルの高さは変わっていないのだが、一年経って、体内の「京都成分」が枯渇してきたということなのかもしれない。カラータイマーが点滅し始めている(日曜の夕刻、テレビで『ウルトラマン』を観ていた世代なので自然にこう書いてしまうが、あの画面からジワジワと伝わってきた切迫感をご理解いただけるだろうか)。そろそろ「苦肉の策」を弄するタイミングかな、という感じである。「そうだ、京都行こう」と決心するまでには至っていないが、京都、そろそろ行ってみるか…、そんな思いが込み上げてくる昨今である。

京都を歩いて何を見るのか。取り立てて何も見ないのである。ただ、街を流れる空気に触れたい。京都を歩くと、いたるところでアナキストを育んているような空気を感じる。法律に従うことを絶対視せず、むしろ、自分(達)で決まりを付ける方法を見つけながら暮らしていく人たちの街。自由と言ってもいいが、それを、十把一絡げに捉えようとする網から逃れる、縛られることを否むという意味でアナキズムと呼んでも良いのではないか。私にとって京都はアナキストたちの跋扈する街なのである。拘束感の強い「東京」の傘の下で暮らす身の解毒剤として京都の街の空気を吸って帰りたい。

北大路バスターミナルから市バスに乗れば10分もしないうちに大徳寺に着く。高桐院という塔頭に足を踏み入れれば、ただ石灯籠(利休ゆかりのものの写し)が一つ据えられただけの苔むした庭が柔らかく包みこむように迎えてくれる。街歩きでアナキストと化した私の休息の場所である。

下、ある日のアナキストたちの宴。

百万遍こたつ事件


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