セシルへ 父のこと
波の音は、
大空に吸い込まれ、
私の身体に溶けた。
そう書かれた日記の表紙は少したわんでいた。長く海風にさらされたからだそうだ--------------------------
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一面の大海原を背に、ぽつりと浮かんだ一艘の客船から、一人の男を乗せた水上バイクが経とうとしている。客船の甲板からは、2人の乗組員が手を振っている。男は水上バイクから、手を振ってこれに応じた。
客船はこれから本土に帰ることになっている。
この予定を伝えた同僚からは「南国リゾートで数日間のバカンス」などと言われ羨ましがられたが、実際のところ只の父親の見舞いである。
普段なら、こんなとこに引き籠るな。もう少し会いに来る人のことを考えろなどと言う。しかし、今度ばかりは本当に容態が思わしくないらしい。少し優しい言葉でもかけてやらなきゃならない。
父は昔から寡黙な人で、私が子供の頃に何かを訪ねても、自然に学べなどと返すだけで、特に何かを教わった記憶もない。たまに口を開いたかと思えばそれは難解な説教で、反省のしようもなく私を困らせたが、それで私が書物から知識を得る習慣が身に付いたことは悪いことではなかったと思う。
その父が相当弱っているという。
私に話したいことがあるなんていうのは初めてだ。
クルーザーを桟橋に係留すると、長く伸びる桟橋の先に真っ白な建物が見えた。建物の二階には窓があって、中の壁も白一色になっているのが分かる。
ここは父の研究室だ。
父は、若い頃に何かの研究に成功して、国際的な賞まで取った人で、定年退職したあと、これからは好きな研究をするとか言って、この島を購入し研究室を建てた。その後、父が未知の病と診断され起きていられなくなってからは、ここが静養の場所になった。
建物に入ると、父が床に伏していた。
建物の中には、南国の植物がそこここに飾られている。階段を上ると部屋の入り口があり、膝まで垂れ下がったカーテンをくぐると父がいた。部屋には即席の間仕切りがされ、何かの機械が父の呼吸を助けていた。
まだ父は話すことができた。
ベッドに寝てはいるものの、顔色は思ったより元気そうだ。
「よう。」
「ああ、来たか。」
「体調はどうだ。」
「今日は悪くない。」
「久々に俺に会ったからって興奮して倒れるなよ。」
父は鼻で笑う。
小一時間ほど、とりとめない話をした。話はいつも通り盛り上がらず、俺が父の病を忘れかけて変に安心したところで、父がぽつりと言った。
「アルバート。俺は、安らかに死を迎えたい。」
「縁起でもない。」
「いや、先は短い…。私はお前達に必要なことはもう全部伝えたしな。」
「セシルも産まれたばかりだ。まだくたばるなよ。」
「歳を取った孫の顔なんて見たいとも思わない。」
「俺より先に死ぬなって意味か?」
「いい親になれよ。」
「分かってる。」
「お前はまだ若い。人は死ぬまで成長だ。」
しばらく波音を聞いた。
「その歳にならないと気づかないことってあったか。」
立ち上がって、そこにあったグラスにミネラルウォーターを注ぐ。
「そうだな。過ごした時間も、得たものも、全てはひとときの夢。死ねば同じ。それに気づいたときが老人の始まり。」
「本当かよ。」
「すこし眠くなった。」
「部屋、寒くないか。」
「大丈夫。」
--------------------------遠い昔のこと。