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幻煙宿にて

 一月二十九日のこと。


 山は孤独である。

 白い霧から辛うじて顔を覗かせれば、ただ黙って佇んでいる。曇天のもとで葉の青さを忘れ、黒々とした山肌から白く冷たい靄を吐き続けていた。

 畳張りの部屋、ガラス越しにそんな山群の様子を見下ろしていた。曇った陽を浴びながら吐く息は白かった。寒くはなかった。そこにいる誰もが、器用にも手元で小さな妖炎を飼い慣らしながら、絶えることなく談笑し続けていたからだ。
 
 山は孤独である。
 それは山間に根を下ろしたこの宿も同じである。
 閑散期にでもなれば、山に飲み込まれ、この霧の海に沈む運命にあるのだ。
 だからこそ、部屋にいる人々は終わらない会話を続けていた。どことなく霧を怖がっていた。ガラス一枚で正気を保つなど到底不可能だったのだろう。絶えることなく煙草の火を燻らせ続け、紫煙の層をまといながら脳髄を痺れさせていた。

 霧と曇天による陽炎めいた催眠術によるものか。
 はたまた硝子の膜で覆った紫煙と電灯の妖術か。
 明るくも薄暗い曖昧な部屋のなかで私は促されるように紙の小箱を取り出せば、二年ぶりにシガリロ(小指大の葉巻)を摘まんでいた。

 小さな箱のなか、薄いわら半紙を挟んで十本ずつの小さな葉巻がずらりと並ぶ。
 一本一本の色、質感、艶を目と指で確かめると「これだ」と引きずり出して頭をパリッと捻切った。そのままどこからか流れるように取り出した愛用のターボライターの火をつければ、一抹の緊張が走る。
 というのも、葉巻は紙煙草と違って火がつきにくい。燃焼剤の類いが混じりこんでいないためである。なら大きな火で一気に着火すればいいのかと言えば、そうではない。火が強すぎれば煙は熱く刺々しくなり、せっかくの時間を無駄にしてしまう。決して焦ってはならないのだ。
 血と骨に刻まれたこの鉄則を脳裏で何度もひりつかせながら、綿菓子の子どもでも作るように、水平方向に向かい合わせた葉巻とライターをくるくる回し続ける。
 そんな神聖極まる行為をまえに「なんだ、君も吸うのか?」と近くにいた男から横槍が飛ぶ。そこに見え隠れする侮蔑の念と己の罪悪感を払拭する免罪符のように「いやいや、二年ぶりなんだからさ……」と漏らせば、小さな種火が宿った葉巻で口に栓をした。火が消えぬよう、されど大きくもならぬよう、何度か優しく吸ってやると、やがて湧水のごとくほとばしる紫煙が鼻腔を満たしてゆらりゆらりと抜けていく。

 それを一息頭上に飛ばすと、藤色の煙は重力に耐えきれず、白紫の海に沈んでいった。

 重厚な香りを懐かしみ、酔いしれつつ周りを見渡せば、火をつける間に入ってきた友人は煙草を吸い終えて退出していた。私はさりげなく一人ロッキングチェアに腰かけると、白紫色の煙を吐く友人らの言葉に「そうだね、そうだね」と椅子を揺らしながら空返事するだけで、それらを耳にはしなかった。

 二年ぶりの葉巻の味が美味しくて堪らなかった。誰にも邪魔をされたくなかった。

『「紫煙」とは文字のごとく「紫色の煙」であるが、この葉巻の本質はそんな短絡的なものではない。この「紫煙」のなかでは、湿り気を含んだ熱帯林の赤土が、鮮烈な夕陽を浴びて乾き始める頃、なだらかな風に流されて立ち上がる爽快で温もりある土の香り……かと思いきや、風に流されて熱帯林を越えた先、清んだ湖で水溶性を露にすると、とたんにその水面に浮かぶ桃色の花の甘い香りが溶け混み、湖で戯れる原地の美女によるものか、風によるものか、はたまた極彩色の欠片を落とす夕陽の最後の輝きが水面を揺らすため、そこに浮かんだ花がゆらり踊り、妖艶な香りを軽やかに撒き散らしていく。その過程でうっかり花弁を落とせば、舞い沈みながら一抹の強烈な残り香をあとに夕暮れとともに消えていく』

 鼻腔を満たすそんな味わいを記憶に刻み込むのに、脳髄の容量がいっぱいいっぱいだった。
 そうまでしなければこの葉巻に申し訳がたたないという軽い強迫観念があった。

 その間にも、紙煙草を愛好する彼らは火をつけては押し消し、部屋を出たり入ったりを繰り返せば、だんだんと数を減らしていった。やがては手元にあった葉巻のざらつきが弱々しく萎びてくると、だんだんと熱くなってきた。その吸い終わってしまう虚しさすら懐かしく、愛おしかった。

 しかし、哀しいかな。二年の断煙はあまりにも大きかった。あの濃厚な紫煙の香りを再現するのは、シガリロの七部丈ぶんが限界で、あとは水で薄めた味気ないものだった。
 いつの日にか手放したあの小さな葉巻箱が、どうしてそっくりそのままポケットにあったのか。もう何年もまえに火のつかなくなったターボライターがどうして息を吹き返すだろうか。

 現実との齟齬に幻滅し、部屋いっぱいの白い霧のなかで、手元の熱は転げ落ちるように冷たくなっていく。そうして紫煙に惑わされていた脳が氷解していくと同時に、私は指の間の小さな白い灰が崩れるよりも速く、意識を霧の海へと投げ捨てた。