
おじさん世代向けHipHop入門講座(その④)80年代中期~後期
ヒップホップの黄金時代は?
一般的には【Run-D.M.C.登場以降~90年代中盤】とされています
1983年:Run-D.M.C.が『It's Like That』でシングル・デビュー
1984年:ファースト・アルバム『Run-D.M.C.』がゴールド・ディスク獲得
Run-D.M.C.は【クイーンズ】出身
この時期からニューヨーク出身以外のアーティストの活躍が始まります
「俺にとってMCとは、Move the Crowd(観客を動かす者)」by Rakim
歴代MCの中で最も技術的な才能に恵まれたリリシストの1人とされている
エリック・B&ラキムの一員だったラキム
エリック・Bはニューヨーク州のクイーンズ出身のDJ
ラキムはニューヨーク州のロングアイランド出身のラッパー
1985年
エリック・B&ラキムを結成し活動を開始
『Eric B. Is President』とカップリング曲『My Melody』でデビュー
彼のラップはギャングスタ・ラップでもなければ政治的でもない
「詩のようなライム」でクールで話しかけるようなスタイル
ヒップホップの歴史を語る上では、避けることの出来ないアーティスト
ギャングスタ・ラップ(Gangsta rap)の登場
暴力的な日常をテーマとしたラップのジャンルのひとつである『ギャングスタ・ラップ』
フィラデルフィアから現れたラップの新しい動き
「ギャングスター・ラップの創始者」:スクーリー・D
1985年『ギャングスター・ラップ』とみなされる最初の曲
Schoolly D- PSK, What Does It Mean?
ストリート・カルチャーとしての基盤
パーカーを着て野球帽を被ってスニーカーを履くストリート・ファッションこの基盤を作ったのが?ビースティ・ボーイズ
アフリカン・アメリカンが独占するヒップホップ・カルチャーで成功を収めた初の白人ラップ・グループ
元々は”ハードコア・パンク・バンド”であった彼らは完全にヒップホップへ完全移行
LLクールJのような「素肌にゴールドチェーンじゃらじゃら」というイメージから「ポロシャツやパーカーでOK」という感じを与えてヒップホップの裾野を広げた
Beastie Boys - Fight for Your Right(1986)
ヒップホップ発祥の地をめぐっての抗争
事の発端となるのがクイーンズ出身のラッパーであるMCシャンが『The Bridge』という楽曲をリリース
「クイーンズがヒップホップ発祥の地である」ともとれるような表現が含まれていた
MC Shan - The Bridge(1986)
これに対してサウス・ブロンクス出身のラッパーであるKRS・ワンが楽曲『South Bronx』で
「そんなラップサウスブロンクスに持ち込んだら生きて帰れると思うなよ」と反論して『ビーフ(注)』が発生
(注)『ビーフ』とは?
ヒップホップの世界では相手をけなし合う「ディスりあい」という意味
ラッパー同士が楽曲を通じてお互いを挑発し合いながらケンカをするという意味合いを持っている
Krs-One - South Bronx(1986)
これにMCシャンは『Kill That Noise』にて応戦
MC Shan - Kill That Noise(1987)
これにKRS・ワンは『The Bridge Is Over』でやり返す
BDP - The Bridge Is Over(1987)
この対立によって両地元のラジオ局(ブロンクスWBLS・クイーンズKISS-FM)は互いのグループの楽曲を放送禁止にするまでに及んだ
この両グループの対立は「ブリッジ・バトル」としてヒップホップ史にも大きく刻まれた出来事
このビーフによってアーティストが地元を主張するスタイルが定着したと言われてる
悲劇:スコット・ラ・ロックの死
BDP(Boogie Down Productions)を結成したKRS-ONEとスコット・ラ・ロックは運命的な出会い
KRS‐ONEは16歳で家出をしてストリートで暮らすホームレス
ギャングがバックボーンの「ユナイテッド・アーツ」というグラフティー・クルーに加入~マリファナを運ぶ最中に捕まり服役
出所後のホームレス向けの更正施設でカウンセラーとして働いていたのが
スコット・ラ・ロック
この出会いでBDPは結成された
1987年8月25日
BDPのDJとして活動していた Dナイス の彼女の元彼氏(薬の売人)とトラブルに巻き込まれ、BDPメンバーで争いを止める目的で元彼氏の地元に入ったところ スコット・ラ・ロックは銃弾に倒れ他界(この事件の殺人犯として検挙された人はいないらしい)
By All Means Necessary / Boogie Down Productions
スコット・ラ・ロックがこの世を去った後に発表されたBDPのセカンド・アルバム(ジャケットは有名なマルコムXのパロディ)
ゴールド・ディスク獲得
『My Philosophy』はスタンリー・タレンタインの『Sister Sanctified』をサンプリング
【ストップ・ザ・バイオレンス運動(暴力廃絶運動)】
スコット・ラ・ロックの他界後、KRS-ONEは自らを “ザ・ティーチャー”と称し【ストップ・ザ・バイオレンス運動(暴力廃絶運動)】の発起人となり40都市の大学を回る講義ツアーを行った
1989年にオール・スターによるシングル『Self Dest-ruction』をリリース
チャックD、クール・モーディー、MCライト、Heavy Dなどなど参加
ナショナル・アーバン・リーグのために約40万ドルの寄付金を集めた
『ナショナル・アーバン・リーグ ( National Urban League)』
1910年ニューヨークに設立された黒人労働者階級を中心に人種差別撤廃を中心に市民権運動を行っているアメリカで最も古くから活動している組織
革命的ラップの先頭に立ったパブリック・エナミー
パブリック・エナミー(Public Enemy)
1987年:デビュー・アルバム『Yo! Bum Rush The Show』をリリース
人種差別が色濃く残っていた当時のアメリカ政府や社会に対しての過激なメッセージを発信
1988年:セカンド・アルバム『It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back』をリリース(ヒップホップ史上最高のアルバムの1枚と評される)
1990年:3rdアルバム『Fear of a Black Planet』をリリース(発売初週で100万枚の出荷を記録)
✅ 世界ツアーを敢行した最初のラップグループ
✅ アルバムをMP3フォーマットでリリースした最初のミュージシャン
Public Enemy - Fight The Power
『Fight the Power』はスパイク・リー監督映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』のテーマ曲
おじさん世代に伝えたいこと
ローカルな文化だったものが認知されていって他地域にも広がっていくと必ずと言っていいほど何らかの形で『摩擦』が生じてくる
この『摩擦』を「平和」で「前向き」で「創造的な摩擦」に昇華させていかなければならない
「ダイバーシティ」というものは双方の理解が不可欠
知識は知恵となって初めて役に立つ
「知識を持っている」だけでは現場で使い物にならない
私のお気に入りサンプリング