「危機管理」を訴えてきた自分が「危機管理」の甘さを痛感させられた
私は30年損害保険会社に勤務して、役職定年を機にフリーランスでの働き方を志し早期退職した。
社内の出世レースに早くから脱落した私は、40歳で「いつの日かフリーランスとして独立しよう」と決めていた。
しかし、家族(特に子供)の生活を支えていかなければいけないので、長期的視点で独立の準備をして退職のベストタイミングを計ってきた。(これには、生命保険等での【ライフプランニング】という知識が役に立った。)
会社勤務時代には、大きな契約締結に携わったり、社内外の人々との交渉を行ったりする対企業ビジネスが中心だった。。
阪神大震災、東日本大震災、台風などの自然災害。火災・交通事故そして企業の不祥事対応といった多くの経験をさせてもらった。
この緊急事態下での各種対応は本当に勉強になり自分の“財産(知識・経験)”となった。
今の自分があるのは、いい意味でも悪い意味でも、この会社生活おかげであることは間違いない。
“失敗”“挫折”から学んだことばかりだったので、この“教訓”を多くの人に伝えいきたいたいというビジネスモデルでの独立だ。
ビジネスモデルの柱となるのは次の3つだ。
1. クライシスマネジメント(危機管理)
2. マーケティング(特に衰退期からの脱却)
3. プレゼンテーション
すべて会社勤務時代に“経験”して、“失敗”して、自分としての【気づき】と【教訓】となったものだ。
【クライシスマネジメント】の考え方を中心にした“力強い組織作り”というのが、私のビジネス“最大の売り”だ。
肩書も何もなく、無名人の私が、まずトライしていったのが?
当たり前のことだが「どうやって自分を知ってもらうか?」ということだ。
とにかく多くの人と出会い、話をしたかった。
名刺交換を目的とした巷の異業種交流会に参加、または自主開催したところで意味はない。
私にとっては、セミナーや勉強会は“堅苦しく”て“面白くない”イメージなので、『 “音楽”は共通言語 』という大義名分の基に【 Talking Live 】と称して、ビジネス街にある飲食店やライブハウスで様々なイベントを開催していった。
(私は、3度の飯より“ロック”と思えるほどの音楽マニア。音楽を聴かない人は存続しないと思っている。)
DJ GAVI としての音楽中心のパーティー形式から、女性起業家との対談形式、週末のランチタイムでの討論会といった様々なイベントを企画・運営していった。
イベントの告知は、開催する飲食店とのタイアップチラシ&SNSで行い、チケット販売はホームページで管理しキャッシュレス。イベントで出会った人との交流を通じて、クライアント候補を見つけいくという流れだ。
【集客】というのは、飲食店にとっても課題なので、何度か足を運び、店長や店員と懇意になっていくのが最初のステップ。
当然、イベントの用途・想定ターゲットに合う飲食店というのが大前提。
会社勤務時代から『人は誰でも飯を食うわけだから、ランチタイムとディナータイムはビジネスタイム』と考えていたので、以前から多くの飲食店と知り合いになっていた。
(飲食店は、私のビジネスモデルの“運命共同体”と言っても過言ではない。)
各イベントも徐々にではあるが、軌道に乗り始めて、協力者・賛同者も増えていった。
やっと大物とのコンタクトがとれ、『大きなイベントが開催できる足掛かりができた』と喜んでいた時、コロナショックが起こった。
2月中旬から立て続けに、2/26、3/8、3/14のイベントの中止を余儀なくされ、4月の勉強会(大手企業主催)講師依頼がキャンセルとなり、5月末のライブハウスでのイベントも中止が決定した。
あっという間に、全ての予定が無くなり、フリーランスどころか、ニートになってしまった。
【危機管理の“重要性”】を訴えていこうとしていた私自身が、【危機管理の“甘さ”】を痛感させられたのだ。
【危機管理】の基本は、『悲観的に準備し、楽観的に対処する(by佐々淳行 氏)』という名言が有名だ。
そもそもの性格が“超ポジティブ”である私はとって、今できるのは【楽観的に対処】することだろう。
もう、笑うしかない。
人と出会って会話することが大好きな私にとって【Stay Home】は過酷ではある。
しかしながら多くの人も我慢しているのだから、私だけが“辛い”のではない。
この時期に“生き方”“ビジネス”を見つめ直すことによって、将来『【コロナショックで人生を見つめ直せた】ので、大きく飛躍できた』と“笑顔”で多くの人語っていきたい。それを目標に設定した。
この投稿を、その第一歩としての宣言としたい。
<ご参考>
過去の経験からの【クライシスマネジメント】を纏めたもの。