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What's Stax ? Why Stax Now ?⑧超先進的な女性活用推進経営企業Stax

If Motown was Hitsville, the saying went, Stax was Soulsville.

エステル・アクストン(Estelle Axton)

Estelle Axton

ジム・スチュアートの姉でスタックスの共同経営者エステル・アクストン

二人は、キャピトル劇場の跡地だったメンフィス市内のイースト・マクレモア・アベニュー926番地を一緒に購入して、ジムがレコーディング スタジオを経営し、彼女はサテライト レコード ショップを経営していました。

「その店はスタックス・レコードの作業場でした。レコードが他のレーベルから発売されると、何がそのレコードを売れた要因なのかについて話し合いました。」

Estelle Axton

南部の白人女性として、彼女は人種差別がまだ完全に影響していた時代に「人種の壁」を打ち破りました。スタックスでは、スタジオでもレーベルのオフィスでも、白人も黒人も平等に一緒に働いていたのです。

“We never saw color, we saw talent.”

Estelle Axton

デヴィッド・ポーター曰く

「彼女はそのコミュニティの活動や、そこに志を持ってやって来た若い子供たちに対してポジティブな精神を持っていました。彼女が貢献したポジティブなエネルギーがなければ、スタックスがスタックスになることはあり得ませんでした」


1970年:アル・ベルの経営方針に賛同できずに、彼女はスタックスを去りました。

その後、彼女はフレトーン・レコード(Fretone Records)を設立し、リック・ディーズ(Rick Dees)の「Disco Duck」をリリースして大ヒット。


カーラ・トーマス(Carla Thomas)


カーラ・トーマスは、スタックス・レコード・スタジオでの録音レコードをリリースした最初のアーティストです。父親のルーファス・トーマスと最初のレコーディング曲「'Cause I Love You」をレコーディングしました。


カーラが16 歳のときに書いた「Gee Whiz」を 1960 年にサテライトでリリースし、全国的なセンセーションを巻き起こしました。


オーティス・レディングとのデュエット アルバムを含む一連のヒット作が続きました。彼女は「メンフィス・ソウルの女王」として地位を確立しました。


メイブル・ジョン(Mable John)

Mable John

30歳で他界した伝説のR&Bシンガー"リトル・ウィリー"・ジョン("Little Willie" John)の実姉である メイブル・ジョン

1956年

彼女はフレンドシップ相互保険会社で秘書として働いていたのですが、そこの上司はモータウンの創設者ベリー・ゴーディの母親(バーサ・ゴーディ)
1958年

メイブルは、ベリー・ゴーディの新レーベル「タムラ」の最初の女性アーティストになりました。ファースト・シングル「Who Couldn't Love a Man Like That」はポップ チャートには入りませんでしたが、ライブ パフォーマーとして活躍しました。

1965年:スタックス・レコードと契約

1966年
ファースト・シングル「Your Good Thing (Is About To End)」リリース:R&Bチャート最高位6位。翌年シングル「Same Time, Same Place」リリース

1968年
弟の"リトル・ウィリー"・ジョンが刑務所内で原因不明の死亡。
彼女はショックで極度の鬱病を患います。
1970年~1977年
レイ・チャールズのバックコーラスグループ「The Raelettes」として活躍
1986 年
カリフォルニア州ロサンゼルスのジョイ・イン・ジーザス・ミニストリーズの牧師兼創設者になり、神学の博士号を取得。


1968年、ジェイムズ・ブラウンは、"リトル・ウィリー"・ジョンを追悼し、彼の曲を中心としたアルバム『Thinking About Little Willie John and a Few Nice Things』をリリース


ディーニー・パーカー(Deanie Parker)

Deanie Parker

1963 年、ディーニー パーカーは地元のタレント コンテストで優勝した後、スタックスでオーディションを受ける機会を獲得しました。
しかし彼女に届いたオファー内容は「ソングライター」だったのです。
そこで彼女は、大学でジャーナリズムを学んでいたこともあって「レーベルの広報担当者になる」というアイデアを提案して、ジム・スチュワートから承諾され、スタックスとの長く重要な関係が始まったのです。

その後 11 年間、パーカーはレーベル内でソングライター、アレンジャー、ライナーノートライター、写真家など、さまざまな役割を果たしました。 ス

タックス唯一の広報担当者として、彼女はレーベルの活動をメディアに伝えるだけでなく、Stax FAX ニュースレターでファンに情報を提供しました。


ベティ・クラッチャー(Bettye Crutcher)

Bettye Crutcher

彼女がスタックスの社内ソングライティング・チームに加わるまで、レーベルの作曲の多くはデヴィッド・ポーターとアイザック・ヘイズのヒットメイキング・チームによって担当されていました。

デヴィッド・ポーターは、オーディションにやってきた彼女の才能に感銘を受け、その場で彼女を雇うことにしました。

彼女は、作家仲間のホーマー・バンクスやレイモンド・ジャクソンとともに、ジョニー・テイラー初のNo.1 R&Bヒット曲「Who's Making Love」の作曲に貢献しました。



ザ・ステイプル・シンガーズ
(The Staple Singers)の
「The Ghetto」「We'll Get Over」「The Challenge」も彼女の作品です。


1974年に彼女のソロ・アルバム「Long As You Love Me (I’ll Be Alright)」をリリースします。このアルバムからのシングルカット曲「Sugar Daddy」


<おまけ>

ドロシー・ウイリアムス(Dorothy Williams)


1964年のリリースされた「Volt 118 : Closer To My Baby / Watchdog」

Goldwaxでもレコーディングされたそうですが、彼女のことの記録が残っていません。



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