【真面目に】アル・カポネは「ジャズの偉大なパトロン」でもあった?
1917年は大きな意味を持つ年
「現代」の始まりは第一次世界大戦からとされています
1917年4月6日第一次世界大戦にアメリカが参戦(1918年11月11日終戦)
この大戦で アメリカは債務国から債権国へ 農業国から工業国へ
世界の工業生産の中心地はイギリスからアメリカへ
古い意味での「ヨーロッパ史」は 1917年に終わり そこから「世界史」が始まった
【1917年】ニューオリンズ・ジャズの発祥地である売春街区ストーリーヴィルは連邦政府によって強制的閉鎖へ
職を失った多くの黒人ジャズメンは 軍需景気に沸いていたシカゴなどの北部都市へ移動を余儀なくされました
そして 禁酒法下の「狂騒の20年代(Roaring 20s)」
ジャズメンはギャングが経営する『スピーク・イージー(もぐり酒場)』を演奏の拠点として 安定的に活動することができるようになりました
ニューオリンズのローカル音楽のジャズが シカゴという大都市で多くの白人聴衆を得て 大衆音楽としての大きな第一歩を踏み出しました
戦争が禁酒法を生み~禁酒法がギャングを生み~そのギャングがパトロンとなって ジャズ が発展していきます
シカゴを支配したアル・カポネは黒人ジャズメンを庇護した
シカゴの人々は アル・カポネを「影の市長」と呼び 彼の君臨を「パクス・カポネ(カポネによる平和)」と表現していました
イタリア人であるカポネは
多くの白人のように「黒人である」という理由だけで 黒人を差別することはなかった
当時のアメリカのヒエラルキーの一番下にいたのが黒人 そしてイタリア人 ユダヤ人 アイルランド人などで トップにいるが それ以外のアメリカ人
カポネは同じ社会的弱者として 黒人ジャズメンは「仲間」という意識だったのでしょう
自分の配下にあるギャング以外に闇ウイスキーの取り引きをすること許可しなかったのですが 黒人犯罪集団にだけは寛容で サウス・サイド(黒人居住区)の多くの黒人はカポネはファンでした
<ファッツ・ウォーラー拉致事件>
1926年1月17日 ファッツ・ウォーラーは4人の男たちに取り囲まれ 脇に停めてある黒塗りのリムジンに押し込まれました(ファッツは生きた心地がしなかったでしょう)
ファッツが強引に連行された場所は 宴会場のステージ上のピアノの椅子
その日はカポネの27才の誕生日だったので ファッツを拉致した男たちのボスへのプレゼントだったんです
ジャズを愛するカポネは ウォーラーに極上シャンパンや最高の食事を振舞って演奏を続けさせたそうです(ポケットに入りきれなかったチップはなんと3,000ドルだったと、、、)
当時 黒人ジャズメンは一流クラブで演奏しても お客と同じ席で食事もできず 正面玄関から出入りもできない 人種差別の時代
アル・カポネ曰く
Prohibition has made nothing but trouble.
禁止することは、トラブル以外何も生まない
カポネのお気に入りのトランペッターは?
ルイ・アームストロング
サッチモの愛称で親しまれた彼の芸風は『アンクル トム(白人のご機嫌とり)』的エンターテインメントと揶揄されることもありましたが 少年時代に起こした発砲事件で少年院に入りしたことで コルネットという楽器に出合ったというエピソードもある不良少年だったんです
サッチモ曰く
20年代初期のシカゴでは、みんなミュージシャンには敬意を持って接してくれた。まるで神さまのような感じだった。
歴史に残る「ざる法」だった『禁酒法』は何だったのか?
禁欲や勤勉を尊ぶピューリタン(清教徒)の影響が強かったアメリカでは 南北戦争以前からアルコールに対する根強い反発がありました
✅ 飲酒のせいで健康被害や治安悪化・暴力事件が増えているという批判
✅ アルコールの過剰摂取が家庭生活にも支障を来すと訴える婦人活動
✅ 第1次世界大戦下でビール業界を支配していたドイツ系移民への反発
禁酒運動は各地で高まりを見せていき 1919年1月から1年間の猶予期間を経て 1920年1月17日から全国禁酒法が施行されました
法が禁じたのは【お酒の製造・販売・移動のみ】で 飲酒そのものは禁じられていません
禁酒法により アメリカのウイスキー産業は壊滅的な打撃を受け アメリカをマーケットにしていた アイリッシュ&スコッチ・ウイスキー産業(アメリカは重要マーケット)も壊滅的なダメージを受けました
密造や密売そして密輸が横行して 裏社会のギャングが頭角を現すのは当然の流れでしょう
大きな経済的繁栄の時代でもある『狂騒の20年代』は
「映画」「ファッション」「文学」などの文化が開花し 金銭的に豊かになった白人は 娯楽として「ジャズ」「ダンス」を取り入れます
それ故に この時代は『ジャズ・エイジ』と呼ばれることもあります
禁酒法で「酒を禁じられていたため」 逆に 白人社会は酒に酔うことが「ファッショナブル?」という感覚になっていって『スピーク・イージー(もぐり酒場)』に毎晩のように出かけるようになったのでしょう
アル・カポネ曰く
All I ever did was sell beer and whiskey to our best people. All I ever did was supply a demand that was pretty popular.
私がやったことは、ビールとウイスキーを最高の人々に売っただけだ。私がやったことは、非常に人気のある需要を供給しただけなんだ。
世界恐慌~禁酒法の終焉
1929年10月24日(暗黙の木曜日)
ニューヨーク株式取引所で株式が大暴落
以後長期にわたり アメリカだけでなく世界中に不況が拡がっていきました
資本主義各国は 恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深めていきます
1933年:禁酒法廃止
米国史上「高貴な実験」と称された『禁酒法』は 様々な矛盾や犠牲を生んで大失敗
教訓として得たモノ?
「人間の基本的欲求を 道徳的な規範で縛ることなどできない」
「欲求を法で縛れば その抜け穴を狙った犯罪が増えるだけ」
まとめ
『売春街という闇社会から「禁酒法」下のギャングの闇社会へ』
世の中のダークサイドを渡り歩いたことで ニューオリンズのローカル音楽が大衆音楽へと発展していった【ジャズ】の歴史
『禁酒法』は【ジャズ】のサポーターだったのでしょう
1930年代になって ベニー・グッドマン らの 白人ミュージシャンが率いるビッグ・バンドによって【ジャズ】は大衆化します
当初 白人社会では グッドマンらの音楽を【スウィング】【スウィング・ミュージック】と呼んで【ジャズ】という言葉は使っていなかったそうです
白人にとって 【ジャズ】=『黒人音楽』という 偏見の現れ
だったのかもしれません
しかし 音楽プロデューサー:ジョン・ハモンドの仕掛もあって
グッドマン楽団は「白人と黒人の混合編成バンド」だったんです
グッドマン楽団に無くてはならない存在と言われた黒人ピアニスト
テディ・ウィルソン
カポネの庇護のもと シカゴで腕を磨いてきた代表的なジャズマンです