”スティーヴ・ビコ”というアパルトヘイト抵抗運動活動家の「死の伝言」
1980年発表のPeter Gabrielソロアルバム3作目『Peter Gabriel』
(彼のソロは1作目から4作目まではすべて『Peter Gabriel』)
このアルバムB面最後の曲 『Biko』
南アフリカの反アパルトヘイト運動において重要な役割を果たした
バントゥー・スティーヴン・ビコ(Bantu Stephen Biko)
1946年12月18日、南アフリカのイースタンケープ州キングウィリアムズタウンで生まれました。彼は幼少期から才能を示し、後にネルソン・マンデラが学んだフォートヘア大学で医学を学びました。
大学在学中に、ビコは南アフリカ学生機構(SASO)を共同設立し、黒人意識運動(Black Consciousness Movement)のリーダーとして台頭します。
彼の主張は、黒人が自らのアイデンティティを誇り、自立し、抑圧に立ち向かうことを促すものでした。
ビコはアパルトヘイト制度に対して非暴力的な抗議活動を展開しましたが、その強力なリーダーシップと影響力により、政府からは脅威と見なされていました。
1973年、ビコは「禁止令」を受け、公の場での発言や執筆、特定の人々との交流が制限されました。
1977年8月18日、ポートエリザベスで警察により拘留され、監禁中、ビコは裸で手錠をかけられ、厳しい拷問を受けます。
9月6日から9月7日の朝の間に、ビコは脳出血を起こしました。
彼の負傷にもかかわらず、警察はまだ裸で拘留されたままにします。
9 月 11 日までに、ビコは厳しい拷問を受けたため、 刑務所病院に移送しなければならないほど衰弱しました。
その夜、2名の警部と巡査部長がプレトリア重犯罪刑務所まで 1000 キロ以上にわたってビコを移送しましたが、 ビコは警察のランドローバーの後部座席に裸のままで横たわり、瀕死の状態で、 医療関係者の付き添いもありませんでした。
そして1997年 9 月 12 日に死亡しました。(享年30歳)
南アフリカ政府は当初「ビコがハンガーストライキ中に死亡した」と発表
国内、国外双方から、公的な検視の実施を求める圧力がかけられ、政府はこれに同意
ビコを拘束した警察官はその後取り調を受けたが、誰も犯罪で起訴されなかった。
ビコの死から20年後の1997年、5人の元将校がビコを殺害したと告白。
彼の死は、アパルトヘイト制度の残酷さと、その制度に対する国際的な非難を引き出し、国際社会は南アフリカの政策に対する圧力を強め、アパルトヘイト制度の終焉に向けて重要な役割を果たしました。
ビコの名声は死後に広まりました。
友人ドナルド・ウッズによって1978年に書かれたビコの伝記は
1987年の映画「遠い夜明け」の原作です。
Biko | Peter Gabriel | Playing For Change | Song Around The World
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