ジャズを愛し人種差別と闘ったVERVE創設者ノーマン・グランツ
ノーマン・グランツの制作方針
「今日のジャズ・シーンを真に代表するアーティスト起用し、音楽的に彼らの真価をレコード化するため、一切の制約を課さず、自作、他作を問わず、いかなる曲も、いかなる編曲も、いかなる楽器編成も自由に使える権限をミュージシャンに与える。さらに録音に必要な時間に制限もつけない」
人種差別が根深い当時の米国において
ジャズを愛し 自分が雇うミュージシャンを大切にした
ノーマン・グランツ(Norman Granz)
ジャズへのめり込んでいく
1918年8月6日 ロサンゼルスで生まれた
10代の頃 ドラムを演奏するリー・ヤング(レスター・ヤングの弟)と友人になったのが きっかけで ジャズにのめり込んでいきます
1942年 UCLAで哲学を専攻しながらMGMスタジオのフィルム編集スタッフとして働いていたグランツは
トルーヴィルというクラブと契約を交わし 日曜夜ジャムセッション「人種差別なきジャズ」を開催(同セッションにはナット・キング・コールやレスター・ヤングも参加)
当時のクラブでは 黒人ミュージシャンが演奏するのを 白人の客が観る
黒人は客として入場することができない。これが当たり前だったんです
ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック
「ズートスーツ暴動」 と 「スリーピーラグーン殺人事件」 の被告人支援の資金集めとして
1944年7月2日日曜日、ロサンゼルスのフィルハーモニーオーディトリアムで2,000人以上もの観客を迎えてのセッション
「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP:Jazz At The Philharmonic)」を開催しました
1945~50年代には アメリカ,ヨーロッパ各地を巡業して 最盛期には全世界を風靡
1947年:Clef設立
聴衆がいないスタジオ内で傘下のミュージシャンに伸び伸びと自分らしい演奏をさせて、それをLPに録音しようとするもの
【録音年】 1952年7月
【録音場所】 ロサンジェルス
Alto Saxophone – Benny Carter, Charlie Parker, Johnny Hodges
Bass – Ray Brown
Cover – David Stone Martin
Drums – J.C. Heard
Guitar – Barney Kessel
Piano – Oscar Peterson
Tenor Saxophone – Ben Webster, Flip Phillips
Trumpet – Charlie Shavers
1953年:レーベル名を『Norgran』へ
『Piano Interpretations By Bud Powell』(Norgran, MGN-1077)
1953年:JATP来日
東京都有楽町日本劇場で6日間 セッション・ステージを開催しました
この日本公演はラジオ東京(現在のTBSラジオ)が放送用に録音しておりレコード化(1972年)
1956年:屋号をVERVEへ
【創立】1956年
【創立者】ノーマン・グランツ
【創立地】ビバリーヒルズ
この ヴァーヴ は ジャズ4大レーベル のひとつになります
(レコード数は プレスティッジよりも多いのだが?)
トラディショナル中心の1000番台(約30枚)ポピュラー系の2000番台(約160枚) ブルース系の3000番台(8枚) エラ・フィッツジェラルドの4000番台(約70枚) ステレオ録音の6000番台(約170 枚) 大物ジャズメンを起用した8000番台(約850枚)
『Sings The Cole Porter Songbook』
『Ella And Louis』
『We Get Requests』
『April In Paris』
そして 「The Jezebel of Jazz)」の異名を持っているほどの どん底人生だった アニタ・オデイ(Anita O'Day )に救いの手を差しのべたのも グランツです
『This is Anita』
1961年:VERVEをMGMに300万ドルで売却
1972年:パブロ・レコード設立
Jazzプロデューサーとしての復帰を賭けて
エラ・フィッツジェラルド オスカー・ピーターソンと専属契約を結び
「Pablo」レーベルを設立
復活第1弾:『ジャズ・アット・ザ・サンタ・モニカ・シヴィック '72』
1987年:健康上の理由で引退
2001年11月22日:逝去
ジャズを愛し ミュージシャンを愛して 自分の意志を貫き通した
ノーマン・グランツ
ジャズ・ファンに限らず
音楽好き ファッション好き
多くの人に知ってもらいたい
ジャズは ダイバーシティ が生んだ音楽
ジャズは インプロヴィゼーション
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