悪徳政治家が作った環境がカンザス・シティ・ジャズを発展させた
トーマス・ジョゼフ・ペンダーガスト(Thomas Joseph Pendergast)
禁酒法下のカンザス・シティだけは、治外法権で 酒場はオールナイト営業している全米一の歓楽街として栄えていました。
この状態は、トーマス・ジョゼフ・ペンダーガストという民主党の悪徳政治家が州の黒幕として街を牛耳って、自分の都合のいいように法律を変えていたからです。
1925年 民主党員として市会議員に選出後、民主党のマシーン(利権や猟官制に基づく集票組織に対するアメリカ合衆国における呼称)のボスとして市政をコントロールします。
彼の醸造工場から酒を買わないと酒場は開業できません。彼のセメント工場からセメントを使わなければ建物も造れません。
1929年の大恐慌が起こっても、カンザス・シティの経済が比較的安定していたのは、ペンダーガストによるビジネス・インフラが築かれていたからです。
1930年代初頭には、彼が支配していた酒場は数百軒ほどあり、演奏旅行で大陸を横断する楽団が立ち寄り、仕事を求める多くのジャズメンを吸収することになりました。
1933年禁酒法廃止以降、ペンダーガストの勢力は衰退していきます(1939年脱税の罪で逮捕)
ハリー・S・トルーマン( Harry S. Truman )
カンザス・シティの洋品店店主から大統領となった、ピアニストになることが夢だった「ただのアメリカ人」ハリー・S・トルーマン。
1922年:ペンダーガストの支援を受けてジャクソン郡の判事に就任「農業地帯であるジャクソン郡の未来は近代的な道路整備にかかっている」と確信して道路整備プロジェクトを進めました。
(この事業のお金は すべてペンダーガストの会社へ流れ カンザス・シティの非合法ビジネス・システムの基盤となっていきます)
1934年:ペンダーガストの支援もあって上院議員に当選
これは、ペンダーガストの野望の一環だったと思われます。
1940年:上院議員に再選(この時にはペンダーガストは失脚していたので独自の選挙戦) 軍事費の不正使用に関する「トルーマン委員会」設立
1944年:ルーズベルト大統領下の副大統領に就任
1945年:ルーズベルト大統領急死(1945年4月12日)で大統領に昇格
カンザス・シティのジャズの特徴
カンザス・シティのジャズは ニューオリンズやシカゴのジャズと違っている特徴は「ブルースとジャズというスタイルの異なる音楽が緩やかにつながっている点」です。
簡単に言えば 『ブルースの歌を楽器で再現化』といった感じです。
カウント・ベイシーは、バンドのプレーヤーのほとんどが楽譜を読めないことから 短く簡略化されたメロディである『リフ』を活用して 頭で覚えただけで演奏できる『ヘッド・アレンジ』を行いました。
バド・ジョンソン・ベン・ウェブスター・レスター・ヤングといった、人間の肉声に近い音を奏でる多くのサックス・プレーヤーを生み出しました。
そして、1920年8月29日にカンザス・シティ郊外で、天才:チャーリー・パーカーが生まれました。
ジャム・セッション( Jam session )の起源
禁酒法下のカンザス・シティにおいて 規約に縛られた演奏に対するミュージシャンたちの欲求不満解消の目的で、カウント・ベイシー楽団が固定出演していた有名ジャズ・クラブにおいて、仕事が終わった後の未明5時から自由な演奏を行うようになりました。
「アフターアワー・セッション」とも言われていて、決まったプログラムはなく ベテランも若いミュージシャンも、誰でも他の人の演奏をつないで演奏を始めることが出来ました。
ギャングがオーナーのクラブでは【投げ銭方式】が採用されていて、その金はジャズ・ミュージシャンの取り分となっていました。
演奏が良ければ、お客さんの入りも増えて、クラブの売り上げも上がるので、ギャングは営業終了後にジャズ・ミュージシャンが自由に演奏を続けることは許可していたそうです。
ここで重視されたのは 『インプロヴィゼーション(即興演奏)』で、参加者たちは 自分の力量を思う存分披露することができた、若手ミュージシャンにとっての登竜門のひとつだったのでしょう。
しかし裏では、黒人ジャズ・ミュージシャンへの「見せしめ」として【リンチ】が行われていました。
悪徳政治家トム・ペンダーガストが「自覚のないままに作った」カンザス・シティ・スタイルのジャズが、ニューヨークに持ち込まれジャズ史における最大の革命『ビ・バップ』誕生に結び付いていきます。