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1967年『サマー・オブ・ラブ』は世界中に何を問いかけ?教えてくれたのか?
1965年以降のアメリカは 第二次世界大戦終了後のベビー・ブームで生まれた「約1900万人の若者」と「古い価値観から離れられない大人」との間で明確に価値観の違いが現れます
短期間で終わると思われたベトナム戦争はなかなか終わらず 当初は軍事介入を指示したアメリカ国民も徐々に『反戦』に移っていき
全国のキャンパスでは『反戦運動デモ』が行われるようになりました
そんな混沌とした社会の中で カウンター・カルチャーとよばれる「対抗文化」が盛り上がっていきます
【ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)】
ビートルズの発祥地リヴァプールは 歴史的にも様々な文化交錯地点として機能していて アメリカの流行音楽がいち早く輸入されていた地域です
社会的弱者の移民系労働階級の人々は 同じ被差別民族の黒人音楽を受入れそして変容することは イギリスの白人若者文化の形成に重要な要素でした
【ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)】
1960年代半ばにロックをはじめとするイギリスのアーティストがアメリカ進出して 全米ヒットチャートを席巻してポピュラー音楽シーンに多大な影響を与えた文化現象
1964年の初めのライフ誌は 次の記事を掲載しました
「(1776年に)イギリスはアメリカの植民地を失ったが 先週 ザ・ビートルズはそれを取り戻した」
1964年2月9日 ビートルズが『エド・サリヴァン・ショー』に出演したことから始まります
1964年4月4日 ビルボード誌Hot 100でビートルズが1位~5位を独占します
第1位「キャント・バイ・ミー・ラヴ」
第2位「ツイスト・アンド・シャウト」
第3位「シー・ラヴズ・ユー」
第4位「抱きしめたい」
第5位「プリーズ・プリーズ・ミー」
ビートルズの後に続いて「ザ・デイヴ・クラーク・ファイヴ」「ザ・ローリング・ストーンズ」「ジ・アニマルズ」「ザ・キンクス」などのイギリス勢が次々とアメリカ進出します
【ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)】の代名詞的な存在の『ロック』がもたらしたこと
① イギリスにおける労働者階級の社会文化的進出を促進した
② 音楽的ルーツである黒人音楽を本国アメリカにおいて再評価させた
③ ポピュラー音楽におけるオリジナル曲による自由な表現を確立させた
イギリス文化とアメリカ文化が共鳴・共振して相互補完的に影響を与え合い1960年代の全世界的な社会文化状況の変革へと『ロック』が導いたことは間違いないでしょう
1965年7月『ニューポート・フォーク・フェスティバル』
当時フォーク界でナンバー1の地位にいたボブ・ディラン
1965年7月25日のヘッドライナーであるディランはエレキ・ギターを携えてステージへ上がり『ライク・ア・ローリング・ストーン』『マギーズ・ファーム』などを披露します
彼のフォークソングを期待していた観客のブーイングとエレクトロニック化した新しいディランに期待する観客からの歓声が入り混じりました
アメリカでは1965年7月25日のこの瞬間に「ロック」が誕生したと言われていて これ以後フォークのロック化がブームとなります
このフェスは音楽界を新たな時代へと導く先駆けでした
どんな世界でも 新しいことを始めると必ずと言っていいほど「現状維持」推進派が【抵抗勢力】としてが現れます
現状の閉塞感から抜け出すには「既成概念」「固定観念」をぶっ壊す『カウンター・カルチャー』が必要なのですが ここで【抵抗勢力】となるのが 頭が硬い大人たちです
特に「利権が絡む」特権階級・決定権限者が【抵抗勢力】となるとモノゴトは【あらぬ方向】に進んでいきます
社会面においては『ブラック・パワー』が台頭してきます
「非暴力運動によって『敵(白人)の良心の目覚め』は期待できない」
こんな考え方が出てくるのは不思議ではなく むしろ自然な流れかもしれません
ブラック・パンサー党
1966年10月15日 ボビー・シールとヒューイ・P・ニュートンが「都市の黒人の窮状を根底から打開する」という目的で『自衛のためのブラック・パンサー党(Black Panther Party for Self-Defense)』を組織しました
革のジャケットにベレー帽そして手にはショットガンの武装化
「自衛のため」と付けた意味は?
『警察官から黒人が受ける人権侵害や暴力に対しては対抗する』
という決意の表れです
ブラック・パンサー党の出現は 混乱しているベトナム戦争と併行して アメリカ国内における暴動と革命を企てる黒人武装勢力として 国家に危機感を抱かせることになりました
公民権法が制定されたことで 法の上での『ジムクロウ法』は廃止になりましたが 名目だけの平等に不満を高めた北部や西部の大都市スラム街に住む黒人は非暴力主義に反抗して実力行動に訴える者も多くなり 各地で黒人暴動が頻発します
結果的には「人種間の垣根を無くす」より「それぞれの人種コミュニティ強化」となり【人種間分断】を広げていった気がします
『ヒッピー』誕生
西海岸サンフランシスを中心とした若者中心の新しいムーブメントが起こります
『ビート・ジェネレーション(Beat Generation)』
第二次世界大戦後の好景気に沸くアメリカの文学界の異端児グループの活動の総称で 文学・美術・音楽をふくむ数々の自由の精神に支えられていた文化・思想・行動様式に影響を受けた人々を【ビートニク(Beatnik)=ビート族】と呼びました(狂騒の時代と呼ばれた1920年代生まれ世代)
【ビート族】の多くはサンフランシスコに住んでいました
【ビート族】になり切れない新参者(若者)は
「ジュニア・グレード・ヒップスター(お子ちゃま軍団)」と【ビート世代】から揶揄され『ヒッピー』という言葉が生まれます
『ヒッピー』たちは家賃が高騰したサンフランシスコには住めず ヘイト・アシュベリーに沢山あった『朽ちかけたビクトリア様式の館』でのシェアハウス運動を始めて ある種のユートピア社会を作ることを目指します
サマー・オブ・ラブ(Summer of Love)
1967年の夏 アメリカで巻き起こった文化的・政治的な主張を伴う社会現象が『サマー・オブ・ラブ(Summer of Love)』と呼ばれています
1967年1月14日「ビー・イン(Be-in)」
サンフランシスコのゴールデンゲート・パークで「ギャザリング・オブ・トライブス(部族の集会)」と呼ばれる無料イベント(ただ集まるだけ)が開かれ2万人にのぼる若者が集まりました
そこでハーバード大学の教授が演説
「大学なんて退学しろ! 高校も中退しなさい! いまの社会のままでは、決められた道を歩む価値は無い」
こうした思想・運動・理想は アーティストたちによる音楽を通じて世界中に広がっていきます
1967年4月28日 『14 Hour Technicolour Dream』
ロンドンのアレクサンドラ・パレスで60年代アンダーグラウンド・サイケデリックの時代を象徴する伝説のイベントが開催されました
1967年4月15日の反戦デモ
ニューヨークで反戦デモが行われ国連本部までの行進に約30万人が参加
サンフランシスコでの反戦デモには約10万人が参加
1963年8月28日の「ワシントン大行進 」よりも参加者が多く
「暴力行使の過激派と現状満足の無気力派の中間に位置する黒人」
の参加が目立っていました
1967年6月1日(アメリカでは6月2日)
ビートルズの8作目のアルバム
『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)』がリリースされます
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『Sgt. Pepper』は様々な方面で話題になります
アルバム発売直後の6月3日
ロンドンのサヴィル・シアターのステージに立ったジミ・ヘンドリックスが『Sgt. Pepper』のタイトル曲をカヴァーして演奏しました
(会場には ポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンがいました)
『Sgt Pepper』のアートワークは
「ポップ・アートをポップスのアルバム・ジャケットに持ち込む」
【アートワークと音楽の両方を楽しむ】
という多くのヒントを与えました
そして『Sgt Pepper』はロックのアルバムとして初めてグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞します
1967年6月10日&11日
カリフォルニアのマウント・タマルパイスで
『Fantasy Faire and Magic Mountain Music Festival』と題されたこのイベントが開催されます(これがアメリカでの最初のロック・フェス?)
たった2ドルという格安の入場料で1万5千から2万の観客が集まり
収益は全て近隣の保育所に寄付されました
【出演】ジェファーソン・エアプレイン ドアーズ カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ バーズ ローラ・ニーロなど
1967年6月16日~18日の3日間
モントレー・カウンティ・フェアグラウンドで
『モントレー・ポップ・フェスティバル』が開催され 延べ3万から5万人の観客が詰めかけました(アメリカ初の大規模ロック・フェスティヴァル)
テーマは「Music, Love & Flowers」
スローガンは「Flowre Power」
『花』は愛のシンボルそして平和の“武器” 反体制・非暴力ユートピアを象徴していました
【モントレー・ポップ・フェスティバルの3つの伝説】
① ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin)
② オーティス・レディング(Otis Redding)
③ ジミー・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)
新しい音楽の祭典で 既成に捉われない白人のミュージシャンが集り
「人種の壁」「性別の壁」を【音楽】でいとも簡単にぶち破りました
特に『ソウル』を然程聴いたことがないであろう白人オーディエンスに対して オーティス・レディングのパフォーマンスは 予想を上回る大反響で このフェスの最大の見せ場と言ってもいいでしょう
1967年6月25日~26日『OUR WORLD 〜われらの世界〜』
世界初の多元衛星中継テレビ番組で ビートルズは番組のために書き下ろした楽曲『All You Need Is Love』のレコーディング風景が世界で同時中継されました
1967年10月21日
「ベトナム戦争終結のための全国動員委員会』の呼びかけに応じて ワシントン・ロンドン・パリ・西ベルリン・アムステルダム・コペンハーゲン・カルカッタ・東京などで連帯して反戦集会や抗議デモが世界的規模で行われました
ワシントンのリンカーン・メモリアル公園に10万人が集まり ペンタゴンまで反戦デモ行進が行われます
そこで1人の若者が警備隊に近づき ライフルの銃口に1本づつカーネーションを差していきます
ヘイト・アシュベリーには大量(4万~10万人)の若者流入するのに伴って治安悪化していきます
好意的であったメディアも「クレイジーなヒッピーたちによる犯罪問題」を煽るように変化していきます
ヘイト・アシュベリーでコミューンを創ろうとしていた『オリジナル・ヒッピー』も「ここは聖地ではない」ことを認めざるを得なくなりました
1967年の冬 「ヒッピーの死」というデモンストレーションが行われ「サマー・オブ・ラブ」運動は終焉します
『サマー・オブ・ラブ』は何を教えてくれたのか?
1960年代の『サマー・オブ・ラブ』を代表とする「カウンター・カルチャー」は?
①「支配的な文化(イデオロギー)」に対する全面的な批判
②「親たちの文化(ペアレント・カルチャー)」からの自立と差異
を強調する傾向があったと考えられ「既存の高級文化(ハイ・カルチャー)」に対する抵抗という意味も含まれています
そして1960年代の「カウンター・カルチャー」は
現代の日本社会と日本型経営企業において『破壊的イノベーション』が起こらない理由と問題点を明確に教えてくれている気がします
「既存の文化」「既存の制度」によって恩恵を受けてきて【既得権益】を手にした特権階級・決定権限者が 新しい概念・思想・思考法を受入れようとしないことが阻害要因