アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイト
1985年
スティーブン・ヴァン・ザント(スプリングスティーンのEストリートバンドのメンバー)と音楽プロデューサーのアーサー・ベイカーが、南アフリカのアパルトヘイト制度に抗議するためのプロジェクトを始動。
1985年10月
彼らはアルバム「Sun City」をリリース。
このアルバムは、当時アパルトヘイト制度下の南アフリカで運営されていた高級リゾート「Sun City」に抗議する歌を特集。
このリゾートは、国際的なアーティストが演奏することで知られていたが、その行為はアパルトヘイト制度を暗黙のうちに支持するものと見なされていました。
<主な参加アーティスト>
マイルス・デイヴィス、ブルース・スプリングスティーン、ルー・リード、ジョージ・クリントン、アフリカ・バンバータ、RUN-DMC 、ピート・タウンゼント、リンゴ・スター、U2のボノなど
1985年11月
タイトルトラック「Sun City」がシングルとしてリリースされ多くのラジオ局で放送されました。
1980年代後半
このプロジェクトは大きな成功を収め、アパルトヘイトに対する国際的な抗議活動を強化。
さらに多くのアーティストが南アフリカでの公演をボイコットし、アパルトヘイト政策への抗議の一部としてアクションを起こしました。
1990年代初頭
南アフリカではアパルトヘイト制度が公式に廃止され、アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイトの活動は終息。
このアーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイトのレガシーは、音楽が政治的な変革を促進する力を持つという教訓と共に、今日まで続いています。
南アフリカのアパルトヘイト制度の歴史
1910年に成立した南アフリカ連邦は、白人間(イギリス系とアフリカーナー)の間での権力争いや経済的格差が特徴的な時期でした。そして、彼らが一体感を持つための一つの手段として、黒人との差別を助長する政策が施行されました。
この経済的・社会的な格差を縮小する一方で、政策の制定と施行は黒人社会に深刻な影響を与えました。
1913年の原住民土地法では、土地の85%を白人が所有し、残りの15%だけを黒人の居住地とするという、極度の不平等な土地分配が定められました。
これにより、黒人は経済的にも社会的にも疎外され、彼らの生活は一層困難なものとなりました。
次第に、これらの法律や政策はより体系的で包括的な人種隔離政策、すなわちアパルトヘイトへと発展していきます。
1948年の選挙で勝利した国民党は、このアパルトヘイト政策を全面的に推進しました。
そして、これにより黒人と白人の間の社会的、経済的、政治的な格差は一層深まっていったのです。
1948年
南アフリカ国民党が選挙に勝利し、アパルトヘイト政策を実施するための法律制定を開始。人種別に生活エリアを制限する「土地法」、異人種間の結婚を禁止する「混血禁止法」などが制定されました。
「土地法」
国の土地の80%を白人だけの所有とし、残りの20%を黒人の居住区と定めました。この法律により、多くの黒人が土地を追われ、都市部のスラム地帯や貧困地域に押し込められました。
「混血禁止法」
異人種間の結婚を禁止しました。さらに、白人と非白人間の性的関係も犯罪とされました。この法律は、人種間の「混血」を防ぎ、人種の「純粋性」を保つというアパルトヘイトの基本原則を法制化したものでした。
1950年代
「人口登録法」
南アフリカのすべての人々を「白人」、「黒人」、「色人」、「アジア人」の4つのカテゴリーに分類しました。これらのカテゴリーは主に人々の外観、教育、生活習慣に基づいて定められました。
この法律により、人々の身分証明書には人種が記載され、その人種によってどこに住むか、どのような教育を受けるか、どのような仕事ができるかなど、人々の日常生活のほぼすべての側面が決まりました。
「集団地域法」
特定の人種が住むことができる地域を制限しました。具体的には、この法律により、各人種は自分たちの「地域」でしか生活することが許されず、別の人種の地域に行くにはパス(移動許可証)が必要になりました。
この法律によって、大規模な人口移動が引き起こされ、多くの黒人や色人が自宅を追われ、所謂「バントゥスタン」と呼ばれる、経済的に貧困で社会的に孤立した地域に移住させられました。
1960年代
「パス法」
黒人(その他の非白人)が特定の地域に居住したり、出入りしたりするために、「パスブック」(身分証明書)を携帯することを要求していました。
これにより、政府は黒人の移動を厳しく制限し、彼らが主に白人のための都市や地域で働くことを管理することができました。
「シャープビル虐殺」
1960年3月21日に「パス法」に対する抗議デモがシャープビルという町で行われました。
このデモは平和的なものを目指していましたが、警察はデモ隊に向かって発砲し、公式には69人が死亡(そのうち8人は女性、10人は子供)、180人以上が負傷しました。実際の死傷者数はさらに多いとの報告もあります。
「シャープビル虐殺」は、アパルトヘイトに対する闘争の節目とされ、今日では毎年3月21日を南アフリカの「人権デー」として、この事件を追悼しています。
「シャープビル虐殺」は、南アフリカの抗議運動に大きな変化をもたらし、アフリカ国民会議(ANC)やパン・アフリカン主義者会議(PAC)などの抗議団体は、この事件後、それまでの平和的な抗議活動から、より積極的、場合によっては武力による抵抗へと戦略を転換しました。
1976年
「ソウェト蜂起」
1974年、南アフリカ政府はアフリカーンス語と英語を公教育の中等教育における教授言語とし、すべての黒人学校で半分以上の科目をアフリカーンス語で教えることを義務付ける法案を可決しました。
これは、多くの学生と彼らの親にとって受け入れがたいものでした。
アフリカーンス語は、アパルトヘイト体制を支持し強制する白人マイノリティの言語であると見なされていました。
1976年6月16日
ソウェトの学生たちは抗議のデモ行進を開始しました。
しかし、警察が集会を解散させようとして発砲し、その結果、数百人が死亡、さらに数千人が負傷するという悲惨な事件に発展しました。
「ソウェト蜂起」は南アフリカ国内外で広く報道され、世界のメディアはこの事件を強く取り上げました。この蜂起は、国際的なスポーツイベントのボイコットや投資の撤退といった経済制裁を引き起こし、南アフリカ政府に大きな圧力をかけることとなりました。
この出来事はアパルトヘイト体制への国際的な非難を高め、体制そのものの終焉へとつながる一連の出来事の一つとなりました。
1980年代
国内外での抗議活動と国際的な経済制裁により、南アフリカ政府はアパルトヘイト政策の緩和を余儀なくされました。
1990年
フレデリック・ウィレム・デクラーク大統領がアパルトヘイトの終了を宣言し、反アパルトヘイト活動家であり、当時投獄されていたネルソン・マンデラを釈放。
1994年
全人種が参加した自由選挙が行われ、ネルソン・マンデラが南アフリカ初の黒人大統領に就任。アパルトヘイト政策は公式に終了しました。
アパルトヘイトの終了とネルソン・マンデラの大統領就任後、南アフリカは新たな時代を迎えましたが、アパルトヘイトの終わりがもたらした影響は深く、急速に解消するものではありませんでした。
マンデラ政権は1995年に「真実と和解委員会」を設立しました。
この委員会の目的は、アパルトヘイト時代の人権侵害を明らかにし、加害者と被害者の和解を促進することでした。
しかし、このプロセスは困難を伴い、依然として社会的な分断を生んでいます。
『HIV/AIDS問題』
マンデラが退任した後の2000年代初頭、南アフリカはHIV/AIDSのパンデミックに直面しました。当時の大統領タボ・ムベキは、この問題に対する不適切な対応を批判されました。これは国内外からの大きな問題となり、後の政策転換を促しました。
ジェイコブ・ズマと不正行為の告発
2009年に就任したジェイコブ・ズマ大統領は、彼の統治期間中に多数の汚職スキャンダルに関与したと広く認識されています。
ズマの汚職疑惑は国内外で広く報道され、彼の信頼性とANCのイメージを大きく傷つけました。これは2018年に彼の辞任を引き起こし、サイリル・ラマポーザが大統領となりました。
現在も、南アフリカは不平等、貧困、失業、教育の問題、HIV/AIDSの影響、政治的な不安定性などの課題に直面しています。しかし、国は依然として進歩を目指し、アフリカ最大の経済大国の地位を維持しています。