公演がおわって考えた ー正直者達7発目「追われる二兎」を振り返ってー
※2018年5月27日、7発目の公演終了後に書いた記事のリライトです。
正直者達7発目の公演は、2018年の5月11日と12日、今からおよそ6年前に吉祥寺は櫂スタジオにて行った。ごくごく人数を絞って、言いたいことが言い合えてそれを実現できるメンバーでやれば、濃密でオモローな公演ができるのではないかと考え、中野さん(※中野直重(中野直重興業))と二人芝居をやることにした。
なんとなく、自分の嗜好が社会に受け入れられない、それを自覚していたりしていなかったりして、社会のすみっこにひっそりとして、世の中から意識されないでいるいる人たちを描きたい思いがあったのでタイトルは「追われる二兎」とした。「二兎を追うものは一兎をも得ず」という諺を考える時、ウサギ側のことを顧みることってあんまりないでしょう?
この公演は運営面ではできるだけコンパクトにしつつ集客を効率化しようということで、金曜小屋入りで本番の乗り打ち、日曜はステージ数に対して集客が見込めないのでやらずに、代わりに土曜に3回やることにして小屋入りは金土の2日間(小屋もよく貸してくれたと思う。櫂スタジオさん、ありがとうございました)という形にした。大変コンパクトな公演でこれはこれで良かったと思う。
内容はといえば、70分くらいの3本の短編集。
・隣の青い芝生
・tea for two
・マミちゃんと仲良くなるまで
の3本立てであった。そのうち私は後2つの「tea for two」と「マミちゃんと仲良くなるまで」を2本の作品を書いた。一つはインプロみたいだったし、もう一つは映像の比重がすごく大きかったから、芝居を書いたといえるかわからないが、とにかく作品を作った。それらについてすこし振り返ってみたい。
(1)tea for two
結果的に、結構綺麗にパッケージ化されたコントになった。コンセプトは男二人がリアルにおばちゃんをやってただダベってたら面白い、というところだった。キーワードは「リアル」。おばちゃん観察のために有休をとって午後の喫茶店にいったりもした。本当に2〜3時間もただ喋り続けてるおばさん達がいた。
しかし、見せ物にするには工夫が必要だった。課題は以下の2点。
①ダレる
一回即興でおばちゃんぽくやってみたら、当人たちの自覚はそんなにないまま、ただダベっているだけであっという間に時間が経ってしまった。そうかあ、よく話すことあるなあと思っていたけど、意外とあっという間なんだなあと、おばちゃんの気持ちを理解すると同時に、こんなもん芝居にならんと思った。見せ物にするなら、話がどうなっていくのか、どうなったら終わるのかということをある程度見せないと、お客さんに永遠のような時間を味わわせることになってしまう。
そこで、今回は興味を持って見てもらう仕掛けとしてゲーム形式にすることにした。これは、おばちゃん同士の実際の会話をヒントにさせてもらった。おばちゃんたちはお互いが好き勝手なことを話しているが、場の話題は1つだし、和を保ったまま極めて平穏に会話が進行していく。一方で、自分が話したいことはとめどなくあるので、いつ自分が話をしようかというのは虎視眈々と狙っている。あの和と我がせめぎあっている様子はのどかな会話と裏腹に緊張感があったし見事であった。
なのでそれを再現して「おばちゃん同士が和を保ったまま(=相手の話題を否定したり無視したりはせず)、自分の話したい話をした人が勝ち」というルールのゲームにした。勝負にしたことにより芝居に緊張感をプラスし見せものとして成り立つようにしつつ、おばちゃんの会話らしさが増すことも狙った。
②メタネタの扱い
やっぱり即興でやっているとどうしてもメタネタで笑いをとりたくなってしまう。「さっきのはおかしいでしょ〜」とか役者本人としてしか出てこないセリフによる笑いだ。これ、切って捨ててしまうには勿体なさすぎるくらいの破壊力はあるが、だからといって、途中途中に入れすぎると芝居の世界観に入り込めず、本来の面白さが消えてしまうので、どう扱っていくかは悩みどころであった。
結果としては、リアルにやる部分(ゲームをしている部分)とメタ会話をする部分を明確に分けることで二兎を追うことにした。明確に切り分けるために、メニュー表みたいな小道具とか、ウエイターとかわかりやすいものを使った。区切りが明確になり、芝居としてもメリハリがついたので、これはよかったと思う。
全体としてみても、冷静にかつ論理的にオモローを考えて作って、ほぼ狙った作品になったのはよかった。実際この作品は順調な仕上がりで稽古場でも優等生であった。放置しすぎて優等生がグレやしないかと実は心配していたぐらいであった。
(2)マミちゃんと仲良くなるまで
数年来の構想を形にすることができた。制作途中、動画にナレーションをつけたあたりから、この作品というか動画への愛着がありすぎてもう客観的な判断ができなくなってしまった。自分がつくりたいようにつくってしまった。冷静にお客さんからどう見えるか考えながらつくっていった「tea for two」とは対極のような作品であった。作家としてはあるべき姿かとも思うが、エンターテイナーではなかったかなと少し反省している。
冷静になれないくらい好きな作品だったので、作れて幸せだったし、「問題作」とか言ってくれる方もいてよかったと思う。今後もこれくらい思い入れのある作品を作っていきたいし、作らなきゃなと思う。その方がいい結果が出る気がする。次はエンターテイナー性との両立が目標だ。
作品を作る際に苦労をしたのは、映像と生の芝居のバランスである。芝居だから生の役者を見せたい、だけども映像も見てほしい。ツッコミをいれてやらないと、映像だけではわかりづらいオモローもあるが、生の芝居でしゃべりすぎると映像の話の筋を追えなくなってしまう。そしてそのバランスの正解は一つではなく、人によってちょうどいいバランスが違うので、作品としてどの辺を狙うのか、ギリギリの所を探っていくのに直前まで悩んだ。ここだけは、観客の目線を意識した作業だったかもしれない。
DVDにして、副音声としてコメンタリーを載せ、映像だけでも、外からのツッコミだけでも2度楽しめるようにするのが、作品としては一番完成するような気もしている。複数回見ることが前提になってしまうのが難点だが。自分用にはそういうやつを作ろうかな。
余談
この作品、男に共感しましたという意見だって少しはあってもいい気もするが、少なくとも表立っては出てこなかったなあ。それは社会的に”言うべきでない”感想だからだろうか。だとしても言ったっていいのに。それをしてもいいのが演劇だと思うのに。
ほかにも、役柄が男女逆だったらどうだろうと想像してみると、意外と普通の話になってしまうしれない、むしろ男が非難される(すこしは応えてあげなよ、と。)ことだってあるかもしれないとも考えると、なんだかなあとも、そのあたりもう少し考えてみても面白いなあとも思う。
そんなことを思っていたら、実際に男女逆になってる漫画があったようだ(「麗しのサブリナさん」)。やっぱりもっと極端な(現実的には考えにくいくらいの)行動が描かれていた。女性側から男性に迫るという場合にはこのくらいやらないとギャグにならないということなのだろう、などということを公演が終わって考えた。
(3)(おまけ)隣の青い芝生
共演者である中野さんが書いた作品。二つの両極端な生きづらさを正面から扱った。僕が書いたわけではないので、あまり言及はしないようにしようと思うが、大事だと思ったのは、「最初のコンセプトが面白いと思ったのだったら、途中なにがあっても、そこに立ち返って、それを信じ抜くこと」「書いてる人が一番考え抜いて大変な思いをしているのだから、周りには周りのサポートの仕方があるし、周りの人間としての作品の質向上への貢献の仕方がある」ということだ。
思った以上にいろんなことを考えながら作品を作っていたなあ、と思い返していて感じた。最後に、お気に入りの初日打ち上げで疲れ切っていたがひとまずやり切った2人の写真を載せておく。最後までお読みいただきありがとうございました。
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