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【小噺】研究室編:辮髪の院生

「小噺」枠を作った。ここでは、「物語」の本筋には到底ならないけれども、詩子の周りで起こった小さな話を載せていく。
  今回は詩子のいた研究室の話をすこし。

史料講読

詩子の院生時代の研究室には、多い時で院生が14人いた。詩子を除いて外は全て中国籍の学生だった。
  詩子がこの研究室にきてから5年後の秋、一人の男性が入学してきた。詩子より一歳上で、既に日本国内の私立大学で修士号を取得していた。博士課程には入らず、「研究生」としてこの研究室に所属した。彼もまた中国籍の学生だった。そして彼は変っていた。

彼は大清帝国皇帝の乾隆の子孫だった。頭は辮髪だ。他の研究室の学生たちは彼の髪型をみて驚いた。それはそうだろう、大抵の人はラーメンマンでしか見たことのない髪型だ。しかも本場の人。満洲人(満族・マンチュ人)。しかし、詩子たちの研究室はそんなことでは驚かない。今までにも何人かいたし、指導教員のご子息もたまに辮髪頭で研究室に遊びにやってくる。たぶん、国内では辮髪率の最も高い研究室だ。
  清という国は、中学の時に中国の王朝として学んだ方も少なくないだろう。だが実際は、ご存じの通り、満洲人の立てた国だ。従って、彼らの第一言語は本来満洲語だ。詩子たちのゼミでは週に一度満洲語史料を講読した。満洲語を転写して翻訳し、それを読み合わせるのだ。
  だが、皇帝の末裔は一味違う。パソコンなんて使わない。使うのは筆と半紙。史料に書かれた満洲語を、それはそれは丁寧に半紙に写して授業に参加した。辮髪頭を見ても驚かない詩子たちでさえ驚くほどの達筆だった。彼が授業に持ってきたのは、いつもその写しと筆だけだった。転写や翻訳もして来ないし、原本の史料も辞書も持参しなかった。よくよく考えてみれば、満洲語のままで理解できるのならば、なるほど転写も翻訳もいらない。いや、そもそもこの授業に出席する必要さえない。ただし、彼が満洲語を理解していたかどうかは誰も確認できてはいないが。

食材

皇帝の末裔が来て間もないある日、研究室のポットが壊れた。コンセントを指して自動で沸かし、保温もするポットだ。買ったばかりのこのポット、ロックを解除しても湯が出てこない。コンセントを指し直しても、ポットとコードの接触を確認しても直らない。水量は十分にある。
  ちょうどその時、隣の研究室から日本人の先輩が入って来た。詩子に聞いた「どうしたの?」。「いや、お湯が出ない。吸い上げる音はするんだけど」。先輩はポットの蓋を開けるやいなや噴き出した。詩子もすぐにポットの中を覗いた。「たまご・・・」。そこには卵が2個ぷかぷかと浮いていた。笑うしかない。詩子と先輩は、互いに目を合わせるとすぐ同じタイミングで同じ方向に視線を投げた。その先には辮髪頭があった。
  皇帝の末裔は顔を真っ赤にして慌てた。ボケたつもりはないようだ。大真面目にゆで卵を作っただけだった。彼が言うには「電気代をかけずにゆで卵を作る技」だそうだ。そんなの信じない。電気代は節約できるかもしれないが、皆無ではないだろう。あれから6年以上経つが、詩子は一度たりともこの技を拝借してゆで卵を作ったことはない。一方、研究室のポットには、たまに「茹で中」と紙が貼られるようになった。

聞けば、どうやら皇帝はアパートに電気もガスも引いていないらしい(彼は、帰国するまで引かなかった)。強すぎる。それゆえに、家で料理することができないらしい。となると、必然的に調理場は研究室となる。満洲皇帝の末裔といえども、食事は北京の若者と変わらない。小麦、肉、ニラ、ネギ、ニンニク、酢、醤。彼が来てから、これらの食材が研究室から消えることはほぼなかった。
  彼にはこだわりがあった。肉以外は冷蔵庫に入れない、と。野菜本来のあり方ではないと言う(肉こそ本来のあり方ではないと思うのだが)。つまり、強烈な臭いを放つ野菜たちは研究室に野放しにされ続けた。北国の冬は寒い。窓など滅多に開けない。もう説明はいらない。詩子にとっては、寒さと臭さという究極の選択を迫れらる冬となった。

皇帝の末裔は料理が好きだった。日が暮れる直前になると、毎日研究室にはおいしそうな香りが漂った(他研究室の人にとっては「臭い」らしいが)。ただし、彼の料理は賑やかだった。見たこともないような小ささの土鍋に、入りきらないくらいの量の具材を入れて火をかける。そして当然ながら、必ず吹かす。土鍋の場合、火を消してもすぐには収まらない。しばらく吹き続ける。吹くのが収まると、彼はまた蓋をして火にかけた。しばらくするとまた吹く。これを5回は繰り返した。そして、彼はその都度雑巾を持ってドタバタ走った。何を見せられているのかは分からない。分かっているのは、研究室の皆が「鍋を大きくしたらいいのに」と思っていたことだけである。
 ちなみに、この研究室を去るまで、彼が鍋を新調することはなかった。

皇帝の末裔の誕生日は、詩子のそれの一日前だった。その日詩子は、お祝いに彼にランチを御馳走した。皇帝の末裔は「家族以外の人に誕生日を祝ってもらったのは初めてだ」と言って大いに喜んでくれたが、詩子はむしろそれを聞いて少し心配になった。友達いないのかな...。
  翌日の晩、詩子が研究室で史料を読んでいると、隣の研究室の学部生がやってきた。別の部局の人が訪ねてきたが、どう対応してよいのか分からずに連れてきたという。ドアの外には、面識のない小柄な若い女性が立っていた。詩子らの研究室が入っている建物は、三つの部局が共同で利用していた。詩子らは4階に、この女性は5階に居室があった。彼女が言うには、その4階と5階の踊り場に包丁を持った体の大きな男性がいて、言葉がよく通じないという。そこで、何らかの対応をすべきだと判断し、明かりのついている研究室のうち最も近い部屋を訪ねたのだった。彼女の話を聞いて詩子はとっさに末裔のデスクに目をやった。空席だった。「間違いない。」
  現場に急行すると、大男が包丁を握って、背中を丸めてしゃがんでいる。暗くて見えにくいものの、頭頂部には確かに辮髪が結われていた。詩子はそっと近寄った。常に想像の斜め上を行く男だ。彼は、詩子をサプライズで喜ばせようと、階段の踊り場は床の上で、こそこそと隠れてケーキを作っていたのだ(見つかったし、怪しまれたけど)。
  彼を知らない女性が、この様子をみたら確かに怖かっただろう。背190㎝の、あたま辮髪というだけでもビビるのに。詩子は平謝りした。皇帝の末裔も、日本語を解さないとはいえ、さすがに空気を読んでその辮髪頭を下げていた。女性は僅かに軽蔑の色を浮かべたまま帰っていった。そのあと、研究室に戻って皆でケーキを食べて詩子の誕生日を祝った。これまでに食したことのない、甘さのまるでないただただ塩っぱいだけの、新手のケーキだった、、、たぶん「ケーキ」だった。

大移動

皇帝の末裔は9月末に、740㎞離れた町から引っ越してきた。
  彼が指導教員に送ったメールには、9月25日にそちらに引っ越すとあった。日本語のできない外国人学生の面倒は、同じ研究室の唯一の日本人学生である詩子が一手に負っていた。区役所の登録、大学の手続き、借家・電気・水道・水などの契約、全て面倒を見なければならない。教授が自らやることはまずない。詩子も9月中に手続きをするべく、アルバイトを調整して待機していた。
  ところが、待てど暮らせど彼はやってこない。彼は携帯電話を持っていなかった。もちろんスマホも。何の音沙汰もない。梨の礫である。さすがの教授先生も心配した。ついに月が明けた。10月1日、詩子は指導教員に呼ばれた。皇帝の末裔が「見つかった」らしい。なんと、大学の駐車場でテントを張って1週間ほど野宿していたという。警備員からの通報によって発覚した。
  皇帝の末裔の言い分はこうだ。「先生に心配をかけられない」。彼の中では筋が通っていたのだろう。家がないことで、指導教員に心配をかけたくないから、ずっと内緒で野宿していたのだという。彼は、家を借りられないために困った挙句野宿を選択したのだ。しかも大学構内なら一般市民に迷惑をかけることはないし、学生が所属大学を使うことは許されると信じている。一理あると詩子も思った。確かに、詩子もキャンパスにテントを張って野宿してはならないという説明を受けたことはない。大学の想定外だったのだろう。
  蓋を開けてみれば、彼は無一文だった。外国人だから一人で家を借りられないとかいう問題ではなく、そもそも金を持っていなかったのだ。引越代や移動費もないから、全ての荷物を持って740kmを原付バイクで移動してきた。途中4泊したらしい。もちろん野宿だ。一番素晴らしかった野宿先を自慢げに教えてくれた。ダムの上にかかった橋らしい。いや、ちょっと羨ましいし…。
  その後、彼は指導教員にお金を借りて、大学に連帯保証人になってもらって、ひと月1万5千円の家を借りた。彼の野宿生活は終わった。指導教員の心配もひとまず消えた。めでたし、めでたし。

附.
皇帝の末裔と詩子は仲が良かった。海外からわざわざ研究の為にやってきて苦学する彼を、同じく貧困の中で大学院に通う詩子は尊敬していた。彼を外国人だからといって他と差別したことはない。
  ここに書きたかったのは彼がとても愉快な人物であるということだ。たまたま国籍が外国にあっただけで。本物語が誤解されないことを願う。そして、一部の留学生は日本語のままならないまま海外でアルバイトをして生活費や学費を工面しながら研究しているということを知ってもらいたい。脱帽する。

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