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noteを始めて一週間。思うこと

noteを始めて一週間が経った。noteで多く書かれる内容の傾向もなんとなく分かってきた。

noteには、私が想像していたよりハウツー、自己啓発に関連する記事が多かった。そして、そうした記事は思っていた以上に人気が高い。だが、私は苦手だ(書き手や記事、それを好む人を否定する気は毛頭ない。ただの好みの問題だ)。何についても、一旦知ってしまえば知らなかったときには戻れない。「ためになる」知識が蓄積されると、そうではない行為や考え方をする度に罪悪感に似た感情を覚える。これが大嫌いだ。きっとこれも私がnoteをはじめとするSNSの初心者で、人の発言や記事との付き合い方を学んでいないからだろうけれど。

そんな私が書くのは院生シングルマザーの物語。ただただ彼女の周りに起こった出来事を綴るだけ。なんのハウツーもないし、自己啓発にもならない。もちろん「ために」などならない。それどころか、女性研究者自体がマイノリティだろうし、シングルマザーで大学院に通う人などほぼいないだろう。つまり、読み手にとっては全く「身近」な話でもなく、それゆえ共感することさえ難しいと思う。
  私は文学のエキスパートではないので、下手なことは言えないし、たぶん口を慎むべきだろう。だが、ド素人の感覚では、読書の上で「共感」は重要だ。ここでの「共感」とは、作者が言語化したことで、読み手が漠然と抱いていた感情を明確に認識することである。これが読み手の心を癒し、興味を誘う。しかし私のnoteの記事にはそれがない。読み手にとってはただの情報だ。しかも「ために」もならない。無論、私が天才だったら、読み手が体験していなくても共感を誘えるのだろうけれど(なんといっても私は初心者、これが処女作)。或いは読み手の感性がスーパー豊かな場合か(スキをしてくれた方は後者なんだろうなぁ。嬉しいなぁ)。
  話が逸れた。要するに、私の記事はつまらないのだ。大衆に受けないのだ。noteを始めて一週間。これに気付くには十分な時間だった。だが同時に、その一週間で私はそれでも書き続けようと決めた。
  初めはこう思った:たった一人でも共感してくれる人がいるかもしれない。いや、共感などなくて物語としてはつまらなくても、大学の現場で起こっていることに興味を持ってくれる人がいるかもしれない、と。
  次にこう思った:いやいや、もはや誰も共感してくれず興味を持ってくれなくたっていい。書くこと自体が私を癒してくる。言語化する作業自体が私を癒す。そしてその文章を私自身が読んで癒される。この体験はとても贅沢なことだ、と。
  そして今、こう思っている:やはり私はこれからもnoteを書き続けよう。上で述べたように自分で書いて自分で読んで満足するのなら、本来はnoteに上げる必要はない。だけれども、誰か一人でも共感してくれたり、興味を持ってくれる人がいたら、それはもっと嬉しい。コメントを頂いたことがあるが、これまでに味わったことのない気持ちだった。他人が、私の書いたものに興味・関心を持ってくれたり同情・共感してくれたことで、私もまたそれに共感し、その人の書いた記事に興味を持つ。ここで得られる満足感、充足感、達成感は、一人で書いて読むのとはまた異なる。やっぱり、読み手を想定して物語を書き公開していこう。

以上が、noteを始めて一週間に起こった私の心の変化である。
  「スキ」してくれたり、フォローしてくれたり、コメントをくれた方、本当にありがとうございます。新しい喜びを知りました。そして、私に勇気を与えたり、心を満たしたり、傷を癒したりしてくれた記事のクリエイターの皆様、本当にありがとうございます。新しい記事が公開されるのを楽しみにしておりますので、これからも何卒宜しくお願い致します。
  これからまた時が経てば、noteを巡る私の気持ちや考えも変化するだろう。節々で記していこうと思う。 

余談。冒頭で自己啓発系が苦手だと述べたが、私は昔から「日記」を読むのが好きだ。文豪の全集にはしばしば日記が収められている。お金がないときには日記が載っている巻だけを買う。それほど好きだ。それらを「ためになる」と思って読んだことなどない。今思えば、書き手の率直な言葉に共感しては癒されていたのだと思う。
  そういえば、昔よく英会話の授業で「最近読んだ本」の話をした。すると必ず、そこから何を学んだのかを問われた。だが、私は決まっていつも答えられなかった。勿論英語も下手だったが、私にとっては、小説を読むのも音楽を聴くのも絵画を観るのも全て同じだった。感情の訓練、心の癒しだからだ。そこにいちいち実用的な価値を見出そうとは思わない。ちなみに、英会話の授業で音楽や絵画の話をしても、上のような質問をされたことは一度もない。

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