特別な時間が始まるぜ②


先日の思いあがった大失敗の結果、誘える相手は妹のみになった。
嘘まみれ、誤魔化し多用で、誘う予定だった人を誘えなかったから代わりに一緒に来てほしいという話を伝えると、「しょうがないなあ」とすんなり頷いてくれた。妹は優しいヤツだから、お願いすれば自分の好みなんか関係なしについてきてくれるのだ。それがわかっていたから、あまり頼りたくなかったのだけど、お兄ちゃんが弱くて申し訳ない。


妹と私は、世間一般のそれらに比べて、ちょっと不思議なくらい仲がいい兄妹である。
六年ほど前の頃は、それぞれ学校生活に必死であったので、お互いの存在をまるっきり忘れて過ごす日が多かった。対立こそ無いものの、大してお互いのことを知らずに暮らしていた。たまに居合わせて何気ない日常会話や下らない議論を交わすことはあったが、やはり私たちの本場は学校であったので、家での会話のほぼすべては自然とその場限りのものになった。
ただ私たちはそういう気を抜いた会話の中でも、日常で頻出する「自然」や「普通」に対しての相互理解と調和をいくつもやってのけていたらしい。私たちをよく見ている両親は、私たちが家の外のことに忙しくしている間にそれらの発見を重ねていた。
そして、四年前くらいだろうか。両親に私たちの出不精をからかわれて、なにも示し合わせていないのに二人揃って同じ理論で立ち向かったとき、しびれを切らしたように両親が言ったのだ。
「あんたたちほんとそっくりだね。」
そう言われて顔を見合わせた瞬間、積み重なっていたものが一定のメモリを過ぎて、私たちの目にもようやく顕著になった。二人の感性は、非常に似通っていた。
埃を被った記憶を引っ張り出し、幼少期からの行動履歴を比較演算してみると、たしかに私たちは、ほかの血の繋がったあらゆる家族、親族とは、比べ物にならないほどの価値観一致率を示していた。


わりかし陽気で社交的な人が多数を占める親戚一同の中、私と妹は友達も少なければ、外出もめったにしない日陰族という非常に珍しい存在で、なぜ自分がこういう風になったのか、疑問を抱えながら過ごしていた。しかしお互いを見つけてからは、自分らの気質をよく分析し、議論し、その末に答えを得た。
結論は、そもそも親族の気質などは、世代を経て変わっていくもので、私たちはたまたまその変わり目ドンピシャで生まれてきただけだということだった。
もちろん、ぱっと思いついただけの理論だが、論理の精度はどうだっていいのだ。私たちがもう孤独な外れ者ではないということが重要だった。議席が二つのみでも、ともに掲げる理論さえあれば、我々は立派に「党」を組める。


それから私たちは、ひた隠しにしていた変異部分に個性と書きつけて鎧に仕立て、これまで屈するしかなかった諸問題、親族の集まりでのアウェー感や「夏休み、沖縄のいとこの家まで遊びに行ってきなよ」系のお節介のすべてを、理論武装した手足を用いて、ダブルパンチや二度蹴りで吹き飛ばしていった。
また、似ているからこそわかる絶妙な力加減でお互いの背中を押しあって、パンケーキ、映画、食べ歩きスポットなど、ひとりでは行けない場所にふたりで次々繰り出した。ナイーブな歩調を茶化し合いつつ、それなりにポジティブに楽しんだ。


朝昼夕の食事の席など、妹と顔を合わせているとき、私の主な役割は、しばしば出てくる妹の愚痴を聞くことだった。

妹は、人との関わりで悩みがちな気質こそ私と似通っているけれど、私よりはずっと器用だ。ちゃんと仲のいい親友が数人いて、その子らとは気楽に話せている。仮に悩みやストレスを抱えても、その発散は口頭の愚痴で済ませられるようだった。

そのため、私はそれらに耳を傾け、あらゆる箇所に心から共感し、冗談を交えた会話のなかで一緒に悩みを悩みつくして、世渡り理論のひとつに変えてから記憶にしまえるように頑張った。それを繰り返していれば、やがてどんな悩みでもトークテーマの一つ、晩餐の副菜程度に見えてくるだろう。
自分がしてほしかったことをしてあげようと思って、妹の相談に向かっていた。


しかし二年ほど前、妹が学校に行けなくなった。一時期の私と同じように。

両親の立ち回りは手慣れたもので、妹の状態を知るとすぐにカウンセリングの受診を促し、何が原因かを探った。その結果、転校すれば解決につながりそうだとわかって、今度は他の高校の検索と見学、それを踏まえての転校を素早くこなした。

それらの対応は功を奏し現在、妹は特に問題なく通学している。
しかしこの期間、私は何もできなかった。貢献したことと言えば、予め両親に不登校児の対応経験を持たせていたことくらいで、何がつらかったのか、どうやって立ち直ったのか、いまだに何も知らない。


悩みは解決したようだし、私と妹の会話のテンポは調子よく高いままだから、気にする必要はない。そう思いつつも、以来私は少しだけ恐れるようになった。
これまで、あらゆる悩みの先人として、妹の言うことに共感しつつ、自分が今まで通ったネガティブ思考の過程を話してきた。そうすれば、悩みに飽きて次に行くのが早くなるだろうと思った。
しかし、むしろそれが、妹の悩みをもとの形よりもいちいち大きく、私が悩んだところまで大きく育たせていたのかもしれない。そうして、妹に必要以上の心労を強いていたのではないか。少し怖くなった。

二人でいるとき、私たちは楽し気にしているけれど、私はそれ以外の瞬間を知ることができない。本当はなにもかも違うから、妹が何に悩んでいるのか、私にできることは何なのか、よくわからない。
ただ、非力な私の代わりに、妹の悩みをほどきうる存在が、なるべくたくさん妹のそばを通りがかるといいと思った。
機会を提供したくて、一緒に出掛けたとき本屋に寄って「なんでもいいからお互い一冊買ってみよう」と言ってみたり、映画の感想ノートを書いて見せて「自分の気持ちでページが埋まっていくのが楽しくて、たくさん映画見たいなって思えるよ」と暗に勧めたりした。
そして、宇多田ヒカルを知らない妹を今度のライブに誘ってみようと思えたのも、そういう理由が大きかった。



ライブに行くことが決まると、妹はだんだん宇多田ヒカルの曲を聴くようになり、そのうちに本当に好きになってくれたらしい。「この曲めっちゃ好きなんだけど、知ってる?」と言われて、「知ってるしわかる~~!!」と私が返すだけのやりとりを何度も仕掛けてくれた。なんてイイヤツなんだ。
ライブグッズも二人でそれぞれ買ったが、販売開始の情報を妹が先にキャッチしていた。注文も妹の方が早かった。いくら私が情弱とはいえこんなこと、お世辞ではできないはず。つまり、順調に好き度をパンプアップしているようだ。私も負けてはいられない。
これまでは私一人の予定だからと、チケット当選時から日増しに高鳴る鼓動を誰にも聞かせなかった。しかし一緒に行く人がいれば期待感や想像をその場で掛け合わせて、それぞれ倍増しにして胸中に持ち帰るという、とても素敵な会話ができる。それが楽しくて、もしかしなくても妹と行くのが最初からベストな選択肢だったのかもしれないと思えるほどに、ライブが楽しみだ。ありがとうマイシスター。


しかし、ライブの日が迫る中、私は曲を大して聞けずにいた。というか、殆ど自主的に聞かないようにしていた。
曲に限らず、感情が動きそうなコンテンツをすべて避ける。
学校の課題を、夏休みが終わるまでに済ませればいいからと放っておく。
思いっきり夜更かししてから寝て、昼に起きて、一日から朝を無くす。
生活の巡りを悪くする。それで心を停滞させる。
先輩との一件を思い出さないようにするためだ。

私は、いつも誰かを助ける人でありたい。そうでなくても、対等に助け合える関係を望む。どちらも無理だというなら、孤高に生きよう。
そう思って、自分なりにいろいろ悩んで生きてきたのに、二十歳にもなって、いまだに社会のお荷物をやっている事実を、精一杯踏み出した一歩の短さ、鈍さ、先輩の気遣いを軋ませる重い足で、嫌でも自覚させられた。

あのカラオケボックスを思い出すと、自己肯定感がどんどん下がって落ち込んでしまう。そんなのはダメだ。せっかくのライブで、絶対楽しみたいんだから。
あの日のことはいったん忘れよう。私生活のことなんかでバッド入ったまま行きたくなくて、ポジティブな気持ちで臨みたいから。
そんな感じで逃避して、音楽に触れずに暮らした。


くだらない生活で日は過ぎて、ついにその時が来た。


いいなと思ったら応援しよう!