Yellow Magic Orchestraの海外進出の功績と、現代のアメリカ西海岸・カナダのインディーシーンからの再評価
はじめに
以下は私、辻本秀太郎が2018年3月に卒業論文として提出した論文を、内容そのままにnote用に少し修正・編集したものになります。約3年前に書いた論文ですが、久しぶりに覗いてみたところ面白く読めたのでPCで眠らせておくのも勿体ないと思い公開してみることにしました。テーマはYMOや細野晴臣の海外からの評価についての検証で、メインは2章と3章になっています(お急ぎの方は、序論のあと1章を飛ばして2章からどうぞ)。YMOがニューウェーブや電子音楽、ヒップホップに与えた影響はこれまで少なからず語られてきたかと思いますが、この論文では主に彼らがMac DeMarcoをはじめとする現代のアメリカ西海岸やカナダのインディーロックのシーンに与えた影響について、ミューザックやvaporwaveについても触れながら「エキゾチズム」や「レトロフューチャー」といったキーワードから論じることを試みています。提出先は、慶應義塾大学法学部 大和田俊之研究会(ポピュラー音楽研究)です。
以下論文↓
[タイトル]
Yellow Magic Orchestraの海外進出の功績と、現代のアメリカ西海岸・カナダのインディーシーンからの再評価
[序論]
本論文の目的は、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏による音楽グループ・Yellow Magic Orchestra(以下YMO)の日本国外における評価について再検証することである。アメリカやヨーロッパにおいてセールス面と芸術面の両方において成功を収めたほぼ唯一の日本のポピュラー音楽グループと言えるYMOについて、2010年代の音楽シーンの動向も踏まえながらここではその功績について考察していく。日本においては1970年代から1980年代への移り目において、アルバムのミリオンヒットや、テレビCMやバラエティ番組への出演、トップアイドルたちへの楽曲提供などを果たし、当時のポップカルチャーの代表する存在であったYMOの評価は確固たるもので、また後世の国内音楽シーンへの影響についてもこれまでに多くのことが語られてきた。しかし、日本国外における彼らの評価に関しては、そこに疑問符がつくことも珍しくない。例えば、音楽プロデューサーの佐久間正英が「YMOは海外において音楽的な成功はしておらず、最終的に日本で成功するためのレコード会社による商業的なやり方だった」(※1)と発言しているなど、YMOの「海外での成功」はあくまで国内プロモーションのためのものであり彼らの欧米での評価は本質的なものではない、という捉え方をされることが多いのもまた事実だ。そこで、本論文では日本国外におけるYMOの受容のされ方や後世に与えた影響について、2018年における音楽シーンの現状も踏まえながら改めてその功績について論じ、再検証していく。
本研究を行うにあたる背景としては、欧米、また日本においてYMOや各メンバーへの再評価が近年進んでいるという一つの動向がある。これまでにも、テクノをはじめとする電子音楽のシーンに関しては、YMOがこれらのシーンに与えた影響については多くの場で語られてきた。しかし、最近においては例えばヒップホップ黎明期においてYMOが果たした功績が指摘されるようになるなど、彼らが後世のポピュラー音楽に与えた影響についての評価のアップデートが確実に進んでいるといえる。そのような中で、本論文はこれまで深く取り上げられてこなかった現代の「インディーロック」とYMOの関わりについて注目し、これについて考察を行っていく。
本論3章からなるこの論文は、まず第1章でバンド結成から散開までの1978年〜1984年というYMOの活動当時期においてにリアルタイムで受けていた海外での評価や、彼らがアメリカやイギリスのミュージシャンたちに与えた影響の概要についてまとめていく。この章においては、当時の海外におけるチャートアクションや売上を追うことで数字などの客観的事実に基づいて彼らの実績を考察することに加え、現地メディアによる当時のライブレビュー等を参考にしながら、彼らの音楽性やライブパフォーマンスに対する欧米の批評家やオーディエンスによる評価についても論じていく。ここでは特に、YMOが海外においてどのような音楽ジャンルのグループとして捉えられていたのかについて、アメリカとイギリスでの受容のされ方の違いや、その違いが現地のミュージシャンたちにどのような影響を与えたのかという点に着目しながら考察する。
第2章と第3章では、近年YMOや細野晴臣からの影響を公言するアーティストの存在が増えている「西海岸やカナダのインディーロック・シーン」の潮流について論じる。ここでは、2010年代のインディーロックにおける重要人物の一人であるカナダ人シンガーソングライターのMac DeMarcoをはじめ、彼を中心とするアメリカやカナダのインディーロックの一つのシーンにおいてYMOの再評価が進んでいる現在の動向について、その要因と共に考察を進める。第2章では、Mac DeMarcoとその周辺のミュージシャンたちとの繋がりについて、そして彼らを結びつける一つの共通言語に細野晴臣やYMOの存在があるという現象について論じ、続く第3章ではこの「西海岸やカナダのインディーロック・シーン」のアーティストたちがどのような点においてYMOにシンパシーを感じており、その影響をどのように表出しているかについて扱う。
以上をまとめると、第1章では、YMOの海外進出に関する基本的事実と活動当時における彼らの評価について、第2,3章においては「現代の音楽シーンが評価するYMO」という観点で、これまでのYMO研究でほとんど論じられてこなかったインディーロックとYMOの関係に着目して考察が進められていくことになる。
[第1章]
まず、YMOの日本国外における実績をレコードのチャートアクションや売上枚数といった数値的な事実から検証したい。初めに、YMOにとってのアメリカでの最初のアクションとなった、ファーストシングル/アルバムのチャート成績について見ていくことにする。シングルのA面として選ばれた 「Firecracker」は、YMO結成の際に細野が坂本と高橋に「マーティン・デニーの“ファイアー・クラッカー”をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る!」というメモを見せたというエピソード(※2)で知られている楽曲である。この「Firecracker」に坂本作曲の「東風(Tong Poo)」が英語名の「Yellow Magic」としてB面に収録されたアメリカでの最初のシングル盤「Computer Game “Theme From The Circus”」はアメリカでの最初のアルバム『Yellow Magic Orchestra(US版)』とともに1979年5月30日にリリースされている。
このシングルとアルバムがBillboardチャートでどのような推移をしたかについて見てみると、まず「Computer Game “Theme From The Circus”」が初めてBillboardのHot100に載るのは1980年2月2日のことで、そこからは9週間のチャートイン、また最高位として60位という結果を残している(※3)。さらに、ジャンル別チャートにも注目しておくと、このシングルは総合シングルチャートにチャートインする1ヶ月ほど前の1月19日にソウル・チャートであるHot Soul Singlesに初めてチャートインしており、またその後17週間にわたるチャート推移を見せ、最高位では18位という記録を残している(※4)。また、同シングルはディスコ・チャートであるDisco Top100においても13週間に及ぶチャートインと最高順位の42位という成績を記録している。「Computer Game “Theme From The Circus”」がHOT100で最高60位、またHot Soul Singlesで最高18位という成績を残し、またHot Soul Singlesにおいては17週という長期間に渡りチャートに残り続けたという事実は、YMOがアメリカにおいてセールス面での爪痕を確かに残した証拠であるといえるだろう。また、「Computer Game “Theme From The Circus”」のソウル・ディスコ層からの支持を示すこれらの数字は、アメリカにおいて「Firecracker」がディスコ・チューンとして受容されていたことを示唆している。ちなみに、このシングルの売り上げ枚数に関しては、アルファレコード社長である村井邦彦が「1980年3月末時点で、アメリカとヨーロッパでシングルは40万枚、アルバムは20万枚の売り上げを記録している」(1980,Fujita,Billboard)と発言していることが参考になる。また、1stアルバム『Yellow Magic Orchestra(US版)』についてもチャートアクションに注目しておくと、これは1980年1月26日に初めてBillbosrd 200(TOP LPs & TAPE)にランクインし、その後は21週間にわたるチャートインを続け、また81位という最高位の記録を残している(※5)。
ここでイギリスにおけるYMOのレコードの動向にも目を向けておくと、A面に「Firecracker」、B面に「Technopolis」が収録された、1980年1月に英国A&Mよりリリースされたシングル「Computer Game (Theme From’ the Invaders’)」のヒットついてはここで触れておくべきだろう。これはUK Singles Chartにおいて1980年6月14日に63位で初めてチャートインすると、その後1980年8月まで11週間においてチャートに残り、最高では17位という記録を残しているのだ。ちなみに、イギリスにおけるシングルについて言うと、1枚目の「Yellow Magic(Tong Poo)」が79年6月、続く2枚目の「中国女」は9月のリリースとなっており、アメリカでのシングルカットの選曲や順序とは異なっていることがわかる。(アメリカでは「Computer Game」がファーストシングルだった)。このようにアメリカとイギリスではYMOの受容のされ方には相違が見られるが、これは英米におけるYMOのジャンルの位置付けや彼らが評価を受けた層の相違に依るものだと考えられる。これについては後に詳しく述べていく。
ここからは、YMOが1979年5月に最初のシングルとアルバムをリリースした後の彼らの海外におけるライブ活動の概要や、それに対する現地メディアからの評価についてまとめていく。まず、YMOは1979年8月にA&Mのレーベルメイトのニューウェーブ・バンドThe Tubesの前座としてロサンゼルスGreek Theaterで初の国外公演を、さらに同じ週にロサンゼルス・マダムフォンでの初の国外単独ライブを経験している(※6)。ここでの評価について見てみると、前座でありながらアンコールを受けたThe Tubesの公演では(※7)、ライブに関してYMOメンバー自身も好意的な反響を感じていたようで、細野もこの公演について「一番印象に残ったのは、LAのグリークシアター。それがアメリカでの最初のステージで、チューブスがいたく気に入ってくれて、前座に呼んでくれたんだけど、その時の反応がよくて、それに味をしめたところがあるのかな」(※8)という発言を残している。また、この公演はYMOが現地メディアの一部から「的確で力強いディスコ・ロックの本質を見せた」と評された(※9)一方で、YMOのコンセプトがロサンゼルスの観衆にそのまま受け入れられたのではなく、初期YMOのライブ演奏におけるフュージョン的な側面に彼らが反応していたという見方もある。例えば、79年10月の米国Player誌は「このショーのスターはカズミだった。(略)シンセサイザーのメロディが繰り返されるのも心地よいが、カズミのリードほど大胆に鮮やかな感情を生み出しているとは思えない。セットも半分終えた頃、またもカズミの磨き上げられたギター・ワークがフィーチャーされたジャズ風の曲、ショーは頂点に達した。」(※10)という評価をしている。
この後YMOは一度帰国し、79年9月には日本国内でセカンドアルバム『ソリッド・ステイト・サバイバー』をリリースし、その後彼らは10月6日のロンドン・ヴェニュー公演を皮切りに第1回ワールドツアー「トランス・アトランティック・ツアー」を開始することとなる。ここでYMOは10月にロンドンとパリで計4公演、11月に入るとニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDC、ボストンでの計5公演を行なっている。ロンドンでの公演について、現地メディアは彼らの演奏が好意的に迎えられたと伝え、YMOの音楽性については「シンセサイザーによる長いソロは避けられ、シンセの上にハードロック的なメンバーによるギターパフォーマンスをさせるなどアプローチには多様さが見られた。対照的に、大半のものはディスコやポップ由来のもので、バンドの先端性にもかかわらず、極めて商業的でもあった」や、また「”Cosmic Surfin"は70年代初頭のシンセ・ユーロ・ヒットの"Popcorn"を思わせる。」(※11)というような評価をしている。イギリスにおいても、YMOは彼らの意図であるディスコ文脈での評価がされつつも、アメリカでのレビューと同様に、渡辺香津美のギタープレイが高い評価を受けていることがわかる。ちなみに、この記事では高橋幸宏のテクニックが絶賛されているとともに、彼が元サディスティック・ミカ・バンドのメンバーとして紹介されていることから、当時のイギリスにおいてサディスティック・ミカ・バンドが一定の地名度を持っていたことも伺える。また、ここで引き合いに出されている「Popcorn」はYMOが大きな影響を公言するGiorgio Moroderによるもので、この曲は当時の海外メディアによるYMOに関するレビューにおいて度々登場している(※12)。ちなみに、79年5月にリリースされたアメリカにおけるデビューシングル「Computer Game “Theme From The Circus”」とデビューアルバム『Yellow Magic Orchestra(US版)』がBillboardチャートに顔を出すようになるのは第1回ワールドツアー後2ヶ月後の80年1月であることとから、ワールドツアーの成功がレコードのヒットに繋がった可能性は十分にあると言えるだろう。
時系列に話を戻すと、80年2月にはワールドツアーからのライブアルバム『パブリック・プレッシャー』が国内でリリースされ、これがオリコンで初登場1位を獲得する。この後は、3月から4月にかけて初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」を行い、また6月にはEP『増殖』を国内リリース、これもオリコンで初登場1位を獲得している。翌月の7月19日には79年5月ぶりのアメリカでのリリースとなる、『ソリッド・ステイト・サバイバー』と『増殖』からの編集盤LPの『×∞Multiplies 』をA&Mから発表している。これは、79年8月にアメリカにおけるYMOを担当していたA&M傘下のホライズン・レーベルが消滅してしまっていたことでアメリカにおける『SOLID STATE SURVIVOUR』 のリリースが宙に浮いていたことが原因だとされている(※13)。そして、オリコン1位を連発し日本国内での人気を確固たるものにした彼らは、「日本のトップバンド」という肩書きとともに80年10月から第2回ワールドツアー「From TOKIO To TOKYO」を開始させ、10月11日のオックスフォードでの公演を皮切りに、バーミンガム、マンチェスター、ロンドン、サザンプトンとイギリスでの5公演と、ハンブルグ、ロッテルダム、ストックホルム、パリ、ミラノ、ローマ公演を行い、また11月にはアメリカで2日に「ソウルトレイン」の出演、そしてロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨークでの4公演を実現させている。
ここでの現地メディアの評価について見てみると、例えばイギリスのThe Guardianはロンドン・ハマースミスでの公演について「部分ごとには素晴らしいダンスミュージックであったが、冷たく無感情のパフォーマンスは残念ながら聴衆を踊らすことはできなかった。」、「ロボットのディスコではこれらの曲は素晴らしいものとなるだろう。」(※14)と評しており、評論家はYMOの無機的な部分に対し否定的な評価を行なっている。しかしながら、現地ニューウェーブシーンのミュージシャンからの反響は大きかったようで、例えばVisage、Japan、Human League、Thomas Dolbyなど、YMOの影響下にあるバンドやミュージシャンがこの後イギリスから出てくるようになる(※15)。また、Ultravoxがその活動初期にYMOからの大きな影響を受け、さらにバンドの全盛期にはUltravoxとYMOが相互に影響し合う関係になっていった(※16)ことは、YMOがその黎明期を代表する存在となっている「テクノ・ポップ」という音楽ジャンルがYMOと英国のバンドの間で確立されて行ったことを象徴しているだろう。また、これらのYMOと英国バンドとの繋がりは、後の坂本龍一によるJapanのDavid Sylvian、またXTCのAndy Partridgeとの共演や、YMOの散解ライブに自らのバンドを脱退して参加したABCのドラマー・David Palmer(後にThe The)と高橋幸宏の関係性などにおいて可視化されるようになっていく。「From TOKIO To TOKYO」において当時ツアースタッフとして同行していた立川直樹は、「イタリアでもウケてたけど、ドイツでは特にウケていた。」や「ロッテルダムではそのあとでテクノが盛んになったんだけど、幻のごとく来ては去って行ったという、YMOの残滓はあったんじゃないかな。」という発言を残しており(※17)、イギリスのみならずヨーロッパにおける成功についてがここでは指摘されている。
このツアーは、アメリカにおいても比較的に好意的な評価がされており、現地誌は11月8日のハリウッドでの公演について「オーディエンスは彼らの音楽に合わせゆっくりと体と温めた。」(※18)などと評しているものの、また同時に「"Tighten Up"と"Day Tripper"という最もオーディエンスがアクセスしやすい曲を演奏しなかった。」(※19)などといった批判的なコメントも残している。「ソウルトレイン」でも演奏された、YMOによるArchie Bell & The Drells の「Tighten Up」のカバーの人気を示すこの批評は、YMOがアメリカにおいてディスコ・バンドとして受容されていたことを示唆する一例だといえる。イギリスではニューウェーブシーンからの支持を受けていたYMOは、アメリカではよりディスコやR&Bに近い音楽性が期待されていたということだろう。ちなみに、80年6月にリリースされた、「Tighten Up」を含むアルバム『×∞Multiplies 』は、第2回ワールドツアー前の9月にBillboard 200にチャート入りを果たしているが、結局このアルバムのチャート推移は2週間にとどまり、ツアー後もセールスが上がることはなかった。結果的に、YMOにとってはこれが最後のBillboardでのチャートインとなった。この後、YMOはそれまでのディスコ/ポップ路線を大胆に変更しニューウェーブへの大きな接近を図った『BGM』(81年3月)や、ロック史において世界で初めてサンプラーが本格的に使われたアルバムだと細野が認める(※20)『テクノデリック』 (81年11月)をリリースすることになるが、「シングルカットできる曲がない」という理由により、A&Mは『BGM』を最後にYMOとの契約に見切りをつけてしまう。よってこれ以降、YMOの作品がアメリカでセールス面において存在感を発揮することはなくなっていく(アーティスト等への影響等は別として)。ここにもニューウェーブを志向していくYMOと彼らにディスコ・バンドであることを期待するA&M、といった構造が見て取れるだろう。
このように、第2回ワールドツアーやその後のリリースに関してアメリカにおける商業的な成功はなかったものの、イギリスと同様にアメリカにおいてもYMOは現地のミュージシャンたちに影響を与えており、その点において彼らは確かな爪痕を残している。アメリカにおいてはYMOがニューウェーブよりもむしろディスコやダンスミュージックとして受容されていたということは先にも述べた通りだが、YMOはその後のアメリカの黒人音楽、または電子音楽の発展に少なくない影響を与えており、例えば後にヒップホップの黎明期を牽引していくこととなるAfrika Bambaataaによる「本当にKraftwerkとYellow Magic Orchestraにのめり込んでいた」(※21)という発言や、デトロイトテクノの創始者であるDerrick MayがKraftwerkと共にYMOをその影響元として挙げていること(※22)はこれを象徴している。また、YMOの影響はこれらのエッジーな音楽シーンのみならず、当時活躍していたメインストリームのポップスやロックのミュージシャンにも届いており、例えばMichael JacksonやEric Claptonが「Behind The Mask」のカバーを行なったことや、Paul McCartneyがYMO信者であることを公言し、アルバム『McCartney Ⅱ』において「Frozen Jap」というテクノ・ポップ曲を発表していることは有名な話である。これらの例が示す、YMOが当時の米英のミュージシャンたちに与えていた影響は、商業的な成績からは計れない、彼らの大きな功績だといえるだろう。次章では、現代におけるロックミュージックに注目し、インディーロックとYMOの関わりについて論じていくことにする。
[第2章]
この章と次の第3章では、YMOが現代の音楽シーンに与えた影響の例として、インディーロックに焦点を当て、「Mac DeMarcoの表現に見られるYMOの影響」という観点で考察を進めていくことにする。Mac DeMarcoとは1990年生まれのカナダ出身のシンガーソングライターで、2012年にブルックリンのインディーレーベル・Captured Tracksからのデビュー後、同年リリースした1stフルアルバム『2』、そして2014年にリリースした2ndアルバム『Salad Days』が、Pitchforkが評価8.0点以上の作品に贈る「Best New Music」に選ばれるなど、近年のインディーロック・シーンにおいて大きな存在感を放っているアーティストである。彼はさらに、2014年にはTyler, the Creatorの楽曲「Granny (ft. Mac DeMarco)」に客演として参加を果たすなど、インディーロックの枠にとどまらない活動も見せ、他ジャンルのファン層からも支持を受けるインディーロック・アーティストの1人だといえる。
そんなMac DeMarcoは大のYMOファンであることで知られている。2017年にリリースされた3rdフルアルバム『This Old Dog』では、アルバムのジャケットに「YMO」という文字が描かれていたり、また歌詞カードのサンクスクレジットには細野晴臣と坂本龍一の名前があったり(※23)と、Mac DeMarcoのYMOへのリスペクトはかなり公然とした方法で表明されている。これ以外にも、彼は様々なインタビューやトーク番組等においてYMOやそのメンバーからの影響を公言しており、その数は多数にわたる。
ここ数年の日本では、この「現代インディー界における重要人物であるカナダ人ソングライターがYMOの影響を受けている」という事実への注目度が高まっており、例えば、雑誌「STUDIO VOICE」は2017年春号においてMac DeMarcoと細野晴臣にフィーチャーした企画を組んでいる。その扉文は、「日本をはじめ、海外でも若い世代の再評価がやまない、日本のロックレジェンドの細野晴臣。その熱狂的なファンの1人であり現代のインディーシーンを代表する、カナダのシンガーソングライターのマック・デマルコが本当に聞きたい10の質問を考え、手紙に書いて送った。」(※24) というもので、この「Mac DeMarco vs Haruomi Hosono」と題された企画では、2人の手紙を通じたやりとりが公開されている。
ここでは、Mac DeMarcoがここで残している興味深い発言の一つを取り上げたい。それは、「あなた(細野)のファンだという人にどんどん出会うんだけど、僕をはじめ、彼らは必ずそれをとても大切に、特別に、心に留めている。あなたの音楽は僕のクルーや友達を結束させていて、それはまるで秘密のハンドシェイク(特別な合言葉?)みたいなんだ。」(※25)というもの。ここで彼が「クルーや友達」と表現するコミュニティとは一体何を指すのであろうか。もし、細野晴臣もしくはYMOが現代のアメリカやカナダにおける、ある特定のインディーロック・シーンからの支持を受けているとすれば、そのことはYMO研究において新たな視座をもたらすヒントになる可能性があるだろう。これについて、以下で考察してみることにする。
最近、日本の音楽メディア等において「Mac DeMarco人脈」や「西海岸やカナダのインディーシーン」といったような表現が散見される。例えば、音楽webメディア「Niche Music」のある記事のタイトルは「Mac DeMarco人脈の隠れキャラ!モントリオールのSSW、Alex Calderが来年発売予定の新作から ‘Strange Dreams’を公開」(※26)というものであり、またフジロックフェスティバルやSXSWなどへの出演経験をもつ東京のインディーバンド、Tempalayは自らのバイオグラフィに「西海岸やカナダの海外インディーシーンの影響を感じさせる極彩の脱力系サウンドに中毒者が続出。」(※27)といった表現を用いている。なお、TempalayはMac DeMarcoバンドの元ギタリストによるソロプロジェクト・Homeshakeとの交流があることから、彼らの言う「西海岸やカナダのインディーシーン」がMac DeMarcoを中心とするシーンのことを指していることは明らかである。そして、これらの事例が示すことは、「Mac DeMarco人脈」や「西海岸やカナダのインディーシーン」という表現が日本の音楽リスナーの間で、ある一定のイメージとともに共有されているという事実であろう。Mac DeMarcoたちがこのようなシーンの存在に対して意識的であるかについては置いておくとして、少なくともこのシーンを外の視点から観察する日本の音楽メディアやリスナーにとって、彼らの繋がりは「シーン」として言語化されており、またそれはMac DeMarcoやHomeshakeの人間関係的な事実のみならず、後述するような 音楽性による共通点にも起因するものだといえるだろう。そして、このようなシーンこそがまさにMac DeMarcoが手紙の中で述べている「細野晴臣という”秘密のハンドシェイク”を共有するクルーや友達」と表現したコミュニティの正体ではないかと推測することができる。
では、実際にこのような「Mac DeMarco人脈」の一員といえるようなアーティストを具体的に挙げてみるとすれば、先ほど少し登場したHomeshakeはその筆頭として挙げることができるだろう。Captured Tracks傘下のレーベル「Sinderlyn Records」に所属するHomeshakeは、Mac DeMarcoのツアーバンドの元ギタリスト・Peter Sagerによるソロプロジェクトであるが、彼の音楽性もまたMac DeMarcoの音楽性を語る上で欠かせない、西海岸的な「サイケデリア」や「気怠さ」の感覚を有するものだ。Homeshakeの音楽性は、よりR&B的なアプローチを指摘される傾向にあるものの、両者の音楽性はとても近いものだといえる。そして、このHomeshakeもYMOや細野晴臣からの影響を受けている人物の一人である点がここでもポイントとなる。ある海外メディアにおけるPeter Sagerの特集記事では、「SagerはChip EやMr. Fingersといったハウスミュージックのパイオニアから、真鍋ちえみというような日本のポップスターまで、全ての音楽の中にインスピレーションを見出している。」(※28)という記述がある。真鍋ちえみとは、細野晴臣がスーパーバイザーを務めたテクノアイドルのことであるが、彼女が1982年にリリースしたアルバム『不思議・少女』には、細野晴臣のみならず矢野顕子や松武秀樹なども制作に関わっており、彼がYMO人脈によるサウンドから大きな影響受けていることがわかる。
このように、HomeshakeはMac DeMarcoと関係の深いアーティストで、かつYMOからの影響を公言しているアーティストの代表例であるといえる。他に、Mac DeMarcoとの繋がりを持つ、またはYMOや3人のメンバーからの影響を公言している代表的な「西海岸やカナダ」系のアーティストやバンドを挙げるとすれば、Devendra Banhart(※29)、The Glowlers(※30)、Avi Buffalo(※31)などもここに挙げることができる。例えば、Avi Buffaloはカリフォルニア出身で、2010年にSub Pop Recordsから10代にしてデビューをしたシンガーソングライターであるが、彼もインタビューにおいてYMOや坂本龍一、そして細野晴臣の『Hosono House』や『フィルハーモニー』からの影響を語っている(※32)。また細野晴臣がプロデュースを務めたサンディー&サンセッツをTwitterで紹介している様子からも、彼がYMOの熱心なファンであることがわかる。Devendra Banhartについては後で詳しく述べることにする。
これまで論じてきたように、このMac DeMarcoやHomeshakeを含む「カナダや西海岸のインディーシーン」には、YMOから大きな影響を受け彼らについての深い知識を披露するアーティストたちが少なからず存在しているのだ。そして、Mac DeMarcoの手紙にあった「秘密のハンドシェイク」という表現がそれを示唆しているように、このシーンにはさらなる数のYMOファンが潜んでいる可能性が十分にある。YMOという80年代の日本のテクノポップ・バンドが、なぜ2010年代のカナダやアメリカ西海岸のアーティストたちに影響を与えているのか。それについて、次の章ではこの「カナダや西海岸のインディーシーン」のアーティストたちがどういった面でその影響を表出させているのかという視点から考察していくことにする。
[第3章]
一聴すると音楽的には直接的な繋がりは見えにくいともいえる現代の「西海岸やカナダのインディーシーン」とYMOや細野晴臣がどのような点を共有しているのかについて、その中心人物であるMac DeMarcoに焦点を当てながら指摘していくことにする。まず、1つ目としては細野晴臣のソロ作品よりYMOに受け継がれていった「エキゾチカ」の要素について。そして2つ目として、近年のMac DeMarcoの表現に見られる「レトロフューチャー」表現とYMOの関係について指摘していくことにする。
Mac DeMarcoは2015年8月にEP『Another One』をリリースした際の海外メディアのインタビューにおいて、「僕はYMOや彼らのサイドプロジェクトに取り憑かれているんだ。でも実は、YMO自体に入れ込んだのは最近のことで、元々彼らを聴くきっかけになったのは細野晴臣の『Hosono House』だった。」という発言をしている(※33)。Mac DeMarcoのファーストアルバム『2』のジャケットが『Hosono House』のジャケットのオマージュであるという事実(※34)からも、彼がYMO結成以前の細野のソロ作品から大きな影響を受けていることは明らかだろう。細野ははっぴいえんど解散後、1973年に初のソロ作品となる『Hosono House』をリリースすると、1975年に『トロピカルダンディー』、1976年に『泰安洋行』、そして1978年に『はらいそ』と三作のソロアルバムを発表しているが、これらは細野の「エキゾチカ」への興味が反映されていることから「トロピカル三部作」と称されている。「エキゾチカ」とは、欧米人がハワイやオセアニアなどの南国の島国を理想的にイメージし、これらの非西洋的な要素をオーケストラ音楽やジャズに取り入れた、1950年代に流行した音楽ジャンルのことであるが、細野は当時このジャンルを代表するアーティストであるマーティン・デニーを愛聴していた(※35)。また、YMO結成の際においてマーティン・デニーの「Firecracker」が重要な役割を果たしていることからも、「エキゾチカ」が70年代後半の細野の作品を語る上で欠かせないキーワードであるということはここで指摘するまでもないだろう。
一方、Mac DeMarcoにおいては彼が1950年代の「エキゾチカ」のアーティストからの直接の影響を公言しているわけではないものの、例えば1883 Magazineは、彼の特集記事において「彼の音楽はあなたを夏のビーチの祝祭に誘い、エキゾチックなギターリフはThe Beach BoysやKinksからの影響を音にしている」(※36)とその音楽性を表現しており、Mac DeMarcoの音楽性を語る際に「エキゾチック」という形容詞が使われていることがわかる。また、Mac DeMarcoの作品に関する批評において必ずといっていいほど名前が上がり、また彼自身がその影響を公言する(※37)、元The Modern LoversのJonahan Richmanが1977年に「Egyptian Raggae」というエジプトの架空のレゲエをテーマとした楽曲をヒットさせていることも、彼と「エキゾチカ」の切り離せない関係性を象徴的に表している。また、Mac DeMarcoの作品におけるコーラスエフェクトのかかったシングルギターのサウンドや低音を活かしたボーカルスタイルなどは、『Hosono House』や「トロピカル三部作」の作風と重なる部分が多大にある。ちなみに、Mac DeMarco以外の「西海岸やカナダのシーン」のアーティストについても目を向けると、2000年頃からロサンゼルスで活動を開始し「土着的なオルタナティブ・フォーク」などと評されながら高い評価を受けてきたDevendra Banhart(※38)は、Mac DeMarcoよりもさらに大々的にまた直接的なエキゾチズム表現をしているアーティストの例だ。彼は細野晴臣からの影響も公言しており、また2017年10月のThe New York Timesによる「The Hidden History of Japan’s Folk-Rock Boom」という特集記事で「日本はまさに音楽の王国だ」(※39)と語る彼は、昨年の来日時に細野との対談も実現させている(※40)。
ところで、ここまで用いてきた「西海岸とカナダの音楽シーン」という表現であるが、改めてこのシーンの音楽的な特徴について歴史を追いながら捉えておきたい。そもそも細野晴臣は、キャリアの初期においてBuffalo SpringfieldやJames Taylorといったようなアメリカ西海岸出身のミュージシャンに大きな影響を受けている(※41)。また、Mac DeMarcoもJames Taylorからの多大な影響を受けていることで知られていることから(※42)、両者はアメリカ西海岸に由来するルーツを共有していることがわかる。
伝統的にロックにおける「アメリカ西海岸」というと、60年代後半のドラッグ/ヒッピーカルチャーを牽引した、Greatful DeadやBuffalo Springfield、The Doorsといったようなバンドがロサンゼルスやカリフォルニア出身であることから、「サイケデリック」さや「脱力感」などといったイメージとともに想起されることは一般的だ(※43)。これに加えて、The Beach Boysに代表されるような「海」や「太陽」といった、陽気で乾いたようなイメージを指すこともありえるだろうが、いずれにせよこの章で挙げてきたような現代の「西海岸やカナダのインディーシーン」に属するアーティストたちは、こういった音像を引き継いている。例えば、Mac DeMarcoの音楽性を取ってみても、まさに「陽気なサイケデリア」という表現がしっくりくるようなもので、彼のサウンドは伝統的な西海岸のロックサウンドを現代風にアップデートしたものと言うこともできるだろう。
少し話は脱線するが、次の「レトロフューチャー」の話題に移る前に、この現代の「西海岸やカナダのシーン」が形成されるようになった過程について、2000年代以降のインディーロックの動向に触れながらここで概論しておく。まず、2000年代前半に目を向けると、この時期に興隆していたのが東海岸・ブルックリンの音楽シーンである。ここで、Vampire WeekendやMGMT、Animal Collectiveなどの「ブルックリン勢」と称されたバンドたちはアフリカ音楽やビートルズ以前の大衆音楽などに目を向けることで、「ロックにおける革新の可能性」を追求した(※44)。しかし、この後ブルックリン勢の挫折後に興隆するようになった西海岸のインディーシーンでは、むしろ「過去の偉大なロックを参照する」ことへの再評価が進められ、例えば東海岸からの西海岸へのシーン移行期のアーティストとして挙げられるAriel Pinkや、またAriel PinkをリスペクトするChristopher Owens率いるGirlsなどの新たなシーンを代表するバンドたちは「メロディーとコードが中心にあるような、特にこれといった新しさもなく、むしろ自分たちの音楽がレトロであることに自覚的な」サウンドを志向するようになっていた(※45)。そして、過去のロックのマナーに則って、現代的な西海岸サウンドを鳴らすMac DeMarcoを始めとする「西海岸やカナダのシーン」のインディーバンドたちもこの「懐古的」なインディーロックの流れの系譜上にあるといえるだろう。
ちなみに、2016年に高い評価を受けた、WhitneyやLemon Twigs、そしてこの両バンドの作品にプロデューサーとして関わったFoxygen、また2017年に多くの媒体での年間ベストアルバムにその名を連ねたThe War On DrugsやFather John Mistyも、この系統上にいると位置付けられるとすれば、現代のインディーロックにおいてこの懐古性を重視する流れは今でも主流にあると言っていいはずだ。2010年代のインディーロックの動向としては、ブルックリン勢によるインディーロックの「革新性」の追求が、懐古的なロックの再評価を取り入れた新たな創造性に転化しているといえるだろう。そして、Mac DeMarcoらがその「懐古」の対象としてサイケデリックロックやサーフロックといった「西海岸の伝統的なサウンド」のみならず、「80年代が描いた未来」というような「レトロフューチャー」的表現にも注目したとすれば、話は以下につながってくる。
ここからは、Mac DeMarcoとYMOの関係性について、「レトロフューチャー」という2つ目のキーワードに注目して考察を進めたいと思う。Mac DeMarcoは、例えば2012年の「Ode to Viceroy」のミュージックビデオでVHS風のエフェクトやノイズ混じりの映像を用いていたように、活動初期からある種vaporwave的とも言える虚無的でシニカルな表現方法を打ち出していた。近年では彼のこの方向性はさらに顕著になっており、2017年に公開された「On the Level」、 「One More Love Song」、「My Old Man」のビデオは、いずれもピアノや犬などのチープなCGによる像が同じ動きをするだけのループ映像であり、これらは明らかにvaporwave的な表現手法の影響が感じられるものだった。また、第2章の冒頭で紹介したTyler, The Creater(彼もまた西海岸出身である)の「Granny (ft. Mac DeMarco)」のミュージックビデオにおいて、使われているCGの加工の仕方やコラージュ手法に見られるvaperwave的表現も、この一例として挙げられるだろう。vaporwaveとは、80年代や90年代の人工物やテクノロジー、また大量消費文化への批評や郷愁を喚起させるような音楽ジャンルかつインターネット・カルチャーのこと(※46)であるが、ここに含まれる「80年代から見た未来像」への愛着とも取れる表現は、「レトロフューチャー」的な表現とも言い換えることができるはずである。Mac DeMarcoは2014年のアルバム『Salad Days』収録の楽曲「Chamber Of Reflection」においてシンセサイザーを大胆に導入して以降、続く2016年のEP『Another One』や2017年のアルバム『This Old Dog』では、彼はシンセサイザーをサウンドの軸の一つとして置いており、楽曲にはvaperwave的な音像をもった楽曲が増えてきている。先述した「Chamber Of Reflection」は彼の代表曲の一つであるが、実はこれは日本のエレクトーン奏者・セキトオシゲオによる1975年のインストゥルメンタル・アルバム『華麗なるエレクトーン2』収録の「ザ・ワード2」のシンセサイザーリフをほぼそのまま引用している楽曲である。さらに、この『華麗なるエレクトーン2』のジャケットには当時のエレクトーンの未来的なイメージが誇張されたイラストが描かれており、これは現代から見るならばvaporwave的ビジュアルともいえるようなデザインとなっている。このようなセンスがその背後にあるといえるようなサンプリング先の選択は、Mac DeMarcoが有する「レトロフューチャー」趣向を表す一例だといえるだろう。
次に、YMOと「レトロフューチャー」感覚との関係について考えてみると、そもそも彼らが80年代の日本のサブカルチャーを代表するグループであるということからこれらの関連性は見えやすい。「フジヤマ、ゲイシャ的なイメージと、ソニー、ホンダ的な工業的イメージの合体」といった欧米人によるテクノオリエンタリズムの典型を全面に出した電脳和服女(※47)のデザインをアメリカ用のファーストアルバムのジャケットに用い、ライブステージ上でも巨大な機械に囲まれながら無表情で演奏したYMOは、自らが未来都市「TOKIO」からやってきたロボットであることに意識的だった。この点においてYMOは「レトロフューチャー」的な感覚を有しており、また彼らは現代においてvaporwaveがそのアイロニーの対象とするものを、80年代の渦中において自己批判的に表現していたグループであったともいえるだろう。さらに、YMOはこのような精神性面における「レトロフューチャー」との関連性のみならず、以下のようにサウンド面においてもその関連性を我々に示唆している。
デビュー時には、ディスコやアメリカを意識していたYMOは、2枚目の「ソリッド・ステイト・サバイバー」期にはイギリスのニューウェーブを意識したものへと方向転換していたが、その後ライブアルバムと企画盤を挟み、1981年に彼らがリリースしたアルバム『BGM』は、実験音楽や環境音楽による影響が反映されたものとなっていた。そしてここで特筆すべきは、高橋幸宏によるこのアルバムのタイトル「BGM」についての「海外のプレスに『YMOの音楽はミューザックだ』って書かれたことがルサンチマンになっている」(※48)という発言である。ミューザックとは、50年代にアメリカのmuuzak社が開発した、レストランなどで有線が流すイージーリスニングのことで、特定の場にいる人の気分を調整するという目的をもった音楽(※49)のことであるが、これはまさに現代のvaperwaveにとっての主なサンプリングの対象先でもあるのだ。ここで評論家が用いたミューザックという表現は彼らの機械的なキャラクターや音楽性におけるフュージョン的側面の無機質さへの批判なのであろうが、当時の評論家がYMOの音楽性をミューザックと評している事実はYMOの音楽性におけるvaperwaveとの共振性を象徴する事実ともいえるだろう。また、そもそもの元を辿れば細野がYMO結成以前に没頭していた「エキゾチカ」自体がムードミュージックやイージーリスニングの一種であった(※50)ことから、YMOの音楽性とミューザックの類似性は必然的なものだといえるかもしれない。
これに関連してもう一度Mac DeMarcoに話を戻し、先日の彼の来日公演についても触れておくと、2018年1月22日の恵比寿リキッドルーム公演でのバンドの登場SEは、驚くべきことに日本のリサイクルショップ「HARD-OFF」の店内BGMが使われていたのだ(※51)。この「HARD-OFF」BGMはミューザック的フュージョンの典型例ともいえるような曲であり、これを笑いの仕掛けとして用いたこのMac DeMarcoによる行為は、まさに本章で論じてきたような「レトロフューチャー」的なユーモアやアイロニーの感覚を共有するYMOとMac DeMarcoの関係、また彼らとミューザックとの関連を象徴するような出来事だといえるだろう。
この章では、YMOからの影響を公言する「西海岸やカナダのインディーシーン」のアーティストたちについて、彼らが「エキゾチズム」や「レトロフューチャー」と言うキーワードにおいてYMOと共振、また影響の表出をしているということについて論じてきた。そして最後に、興味深い動向として触れておきたいのは、近年の日本の若いインディーバンドたちがMac DeMarcoやその周辺のバンドの影響下にあるということだ。音楽メディア「Belong」でのTempalayとHomeshakeの対談記事において、インタビュアーはPeter Sagerに対して「最近、日本の若手のバンドと話すと必ずMac DeMarcoやHomeshakeの名前が出てくるのですが、そのような現状を知っていましたか。」(※52)という質問を投げかけているが、ここから彼らの日本のインディーシーンにおける影響力の大きさが伺える。海外のインディーロックを参照する日本の若いミュージシャンたちがMac DeMarcoら海外のインディーアーティストたちのフィルターを通して、細野晴臣やYMOの遺伝子を受け継いでいるという点は興味深く、また近年の日本におけるYMO(特に細野晴臣)再評価の流れもこれと無関係ではないだろう。2014年ごろから東京のインディーシーンで頭角を示し、数年でメジャーデビューまで実現させるなどの活躍を見せるYogee New Wavesやnever young beachといったバンドが、アルバムに『Paraiso』(※53)や『Yashinoki House』(※54)という明らかなオマージュを含むタイトルを用いていることはこれを象徴している。また、特にnever young beachについては、デビュー時からキャッチコピーとして「西海岸のはっぴいえんど」という表現で評されていることから(※55)、彼らはまさに細野晴臣と「西海岸やカナダのシーン」の繋がりが生んだバンドであるといえるだろう。
[結論]
まず、第1章においてはYMOの活動当時における海外での受容について、チャート成績などの数字的事実や当時の雑誌や新聞による評論を参照しながら考察を進めた。アメリカでは、シングル「Firecracker」が総合チャートでの最高60位や、Hot Soul Singlesにおいて最高18位と4ヶ月以上にわたるチャートインという記録を、またアルバム『Yellow Magic Orchestra』も総合チャートで5ヶ月以上のチャートインと最高81位というヒットの記録を残すなど、彼らはアメリカの音楽シーンである一定の存在感を発揮することに成功していた。また、ディスコやソウルのジャンル別チャートにおける好成績に加え、有名テレビ番組「ディスコトレイン」への出演を果たすなど、YMOの音楽性がアメリカでブラックミュージックの文脈において高く評価されていたことについても触れた。
一方イギリスにおいては、ディスコやフュージョンに加え、YMOがよりニューウェーブ寄りのバンドとして受容され、彼らがイギリスのニューウェーブシーンと共鳴し、刺激し合い、また交流を育んでいたことについて論じた。また、元々はエレクトリック・ディスコバンドとして結成されたYMOが、中期以降ニューウェーブへ大幅に傾倒したことで現地レコード会社との思惑とのずれが生じたことから、彼らの海外進出は収束に向かっていった。しかし、ここで重要なのはヒットチャートに乗らずともYMOの作品群やライブパフォーマンスは当時の現地ミュージシャンやアンダーグラウンドシーンに影響を少なからず与えていたという点で、ヒップホップやテクノの発展におけるYMOの貢献は後世から評価されるようになっていった。
続く第2章と第3章では、これまでのYMO研究でほとんど触れられることのなかった彼らとインディーロックとの関わりに着目し、現代のアメリカやカナダにおける一つの音楽シーンの潮流について論じた。2010年代のインディーロックにおける重要人物の一人であり、YMOからの多大な影響を受けるMac DeMarcoが語る「秘密のハンドシェイク」としての細野晴臣の存在、そしてMac DeMarco周辺のアーティストによるYMO人脈を中心とする日本のポップミュージックへの深い知識や敬愛、またそのシーンが「西海岸やカナダのインディーシーン」として音楽メディア等にも認識、可視化されていることについてここで指摘した。また、第3章においては「西海岸やカナダのインディーシーン」とYMOが共有する感覚、またMac DeMarcoらがYMOからの影響をどのような形で表出しているのかについて、「エキゾチカ」と「レトロフューチャー」という2つの観点からその類似性や共鳴性について考察した。
本論の最後では、この「西海岸やカナダのインディーシーン」が近年の東京のインディーシーンに多大な影響を与え、日本の若い世代が逆輸入という形で(直輸入もあるが)細野晴臣の影響を受け継いでいることについて触れ、近年日本においても細野晴臣やYMOの再評価が進んでいることについて指摘した。アカデミー賞の受賞をはじめ、すでに世界的な音楽家としての地位を確固たるものにする坂本龍一に加えて、ここにきて国内外のアンダーグラウンドな音楽シーンにおいて「細野晴臣の再評価」が着実に進んでいることを本論文は強調している。ちなみに、坂本龍一に関して言えば、イギリスの音楽メディア「FACT Magazine」が2017年の年間ベストアルバム・ランキングにおいて、昨年リリースした坂本による8年ぶりのオリジナルアルバム『async』を1位として選出したというニュース(※56)が記憶に新しい。Kendrick LamarやSZA、Migosといった現代のビッグネームたちを差し置いて高い評価を受けたこの『async』の成功を機に、Ryuichi Sakamotoの名が今後の欧米の音楽シーンにおいてさらに存在感を発揮していく可能性も十分あるだろう。
国内の音楽シーンに目を向ければ、メインストリームにおいては細野との深い親交を持ち、アルバム『Yellow Dancer』で国民的ポップスターとなった星野源が、「エキゾチカ」由来のフレーズをお茶の間で鳴らしている。また、アンダーグラウンドにおいては、2010年代の東京のインディーシーンにおける最重要バンドのcero(Contemporary Exotica Rock Orchestra)が、2013年に「Yellow Magus」(Magus=魔術師)で東京のインディーシーンにブラックミュージックの風を吹き込み、それ以降のインディーシーンの充実ぶりを決定づけた。さらに、YMO再結成の際にサポート・ギターを務めたCorneliusこと小山田圭吾は、現在海外で最も評価される日本人アーティストの一人であるが、「Mellow Yellow Feel」という楽曲を収録する新アルバムのワールドツアーにおいてはMac DeMarcoとの共演も果たしている(メキシコのNRMALフェスティバルにおいてCorneliusはヘッドライナーを務め、Mac DeMarcoも同ステージに出演した)。
このように、細野が40年前に生み出した「黄色い魔術」というコンセプトは後のアーティストにより脈々と受け継がれ、再解釈が繰り返されている。現在においても、日本人アーティストである彼らは自らのアイデンティティを「Yellow」という言葉に託し、日本の音楽グループとして最初にして唯一海外の音楽シーンに爪痕を残したYMOの意志を受け継くことを試み続けている。結成から40年経ってもなお国内外のアーティストたちを魅了し、刺激するYMOの功績への評価は今後もアップデートされ続けていくだろう。
[参考文献]
執筆者:辻本秀太郎(2018年3月)