自分のペースで、"ユーリカ!"に出会う。
相変わらず、答えの見つけようがないと思われる”自由”についてボンヤリと。
400mハードルの陸上選手だった為末大さんのブログに興味をひかれる文章が記載されていた。
競技人生の間、私はコーチをつけないで競技をしておりました。それはそのやり方が優れていたというよりも、私自身が何かに縛られたり人の命令に従って動くということが我慢ならなかったというのが本当のところです。その頃、自分は偏屈で一人が好きなんだと思っていました。
私がコーチをつけないで競技を行っていたことの背景にあるのは、人間はそれぞれ自由に自分の考えに伴って人生を生きるべきで、それを制限してはならないという価値観だったのだと思います。http://tamesue.jp/blog/archives/think/20170104
「なんでコーチを付けなかったのですか?」と、おそらく飽きるほどに質問を受けてこられたと思う。その時々で、過去、どのような回答があったのか知らないのだけれど(ネット記事検索したら、いくつか出てくるでしょうが)、為末さん自身にも、本当のところは分からない、というか、言語化できるものではないんじゃないかとも思う。
人の命令に従って動くことに違和感を覚え、逆に、自分なりのやり方で過ごすことに、ココロが躍った、ただそれだけ、ではないか。
そこに更に理由をみつけようとすると、2つ目に引用したような”価値観”に落とし込んでいくことになるのだと思うのだけれど、それって、言語化することに本来無理があるような気がするのですよね。。。
言語化はできないけれど、そこには確かに”とある感覚”や”気持ちの塊”が絶対的にあって、それに従って、動いてきた、ただ、それだけ、ではないか。
だって、ひとりで走りたかったから。だって、コーチを必要ないと思ったから。
とにかく論理的に話せ、思考を構造化せよ、、、と最近の日本(特にビジネスの現場?)でしつこく言われることが多く、無理やりに言語化していくことが良しとされる風潮があるけれども、理由を突き詰めていった根っこにあるものって、本来、言語化できるものじゃないと思うんだなぁ。
まるっと感じたままのことが、相手にも伝わればいいのにね。
さて、そもそも、なんで為末さんのブログをみて、なんか書きたくなったかというと。。。
私自身が幼いころ、人に何かを習うことが苦手で、なんにも習い事をしたことがない人間だったなぁ、、、ということを思い出したからである。
月謝を払って習い事はしたことがない一方で、勝手に家で絵を描いてみたり、習字をしてみたり、作文書いたり、エレクトーンを弾いてみたり、、、、、と一通りのことは、なんでもやった。
姉たちの習い事の道具が一式揃っていたので、ぜーんぶ借りて。習うのが苦手といいつつ、たまに母や姉たちに練習の成果をみてもらったりして。
人に指示されるよりも、自分で発見して、あれこれ習得することが好きだったのかなぁ。”分かってるから、ほっておいて!”という感じか。きっと、生まれた時からそんな子どもだったんだろうな。ほとんどのクラスメイトが何かしら習い事をするなかで、なんて変わってるんだ!笑
あぁ、そうか!!!書きながら整理できてきた。
わたし、自分で色々発見しながら前に進むことが好きなのだ。人に押しつけられたものには興味なく、先回りして提示されることも好まず、自分でルールや法則をみつけながら、"あぁ、わかった!ユーリカ!!"とワクワクすることが、好きなのだ。(・∀・)(・∀・)(・∀・)
仮に第三者からみて、それが、本質的に分かっていなかったとしても、その”わかった!”という感覚が、わたしにとって大事なんだろうな。
"わかった!"という瞬間に、自由を得ているとも言えるのかもしれない。
人に、的確に何かを習うことで、"わかった!"が加速する場合もある。その時は、習う事自体は苦痛に感じない。"わかった!"が得られない場合、そして、なんら価値のなさそうなことを押しつけられていると感じた場合、それはそれは重苦しい時間となるのである。。。。。
そういや、姉達とゲームをしながら「もうー、わからんーーーーー!!!!!」と癇癪をおこしながら泣いている幼少期の自分がいたなぁ。。。
自分で心の底から"わかった!"と思えることが好きだし、"わからない"ままに他人のペースで動くことを強要されることが苦痛だったとも言えるのかも。
あぁ、つらつら書いてるけど、奥深い。( *´艸`)
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