言葉を発することで、思考が自由になるのか、言葉に縛られることになるのか。
ルターの足跡をたどって知った聖書のことば「はじめに言葉ありき」。
そして、ソシュールの言語論に出てくる「言葉の恣意性、ことばにすることで、その対象がはじめて認知される」という考え方。
どちらも、「ことばがなければ、その対象物は、存在しない」ということ。
日頃、ことばに出来ないフワフワとした感情や、うまく纏まらない想いについて、言葉に頼らずに、それをそのまま丸っと表現できたら良いのになぁ、と思うことがあるのだけれど、聖書やソシュールによると、言葉にならないものは存在していない、ということになってしまう。
うーーーーーーん、そうなのだろうか。
言葉にならないものは、存在してないも”同然”、であれば、ちょっと納得。ちょっとだけ。( *´艸`)
物質(量子レベルであっても)としての存在は、言葉の有無には寄らないんじゃないかなぁと思うのですよねぇ。どんなに「在る」ものであっても、人がそれを「認識した」という自覚がない限り、「無い」ことになってしまうという感覚は分からなくはないけれど、とはいえ、人にみえなくったって、言葉に表せなくったって、「在る」もんは「在る」んじゃないだろうか、と思うのだけれども。。。
はて、ここで、何の話をしたかったのかというと。。。
自由について、自由に考えているのだけれど、「言葉」に落とし込んでしまった時点で、恣意的な表現にとらわれてしまうのじゃないか、とフト思ったのです。言葉にすることで、思考がクリアになるという説もあるのだけれど、グルグル悩んでる思考がクリアに自由になる一方で、「自由についての考え方」は言葉に落とし込むことで自由じゃなくなる、というジレンマ。( ̄▽ ̄)
むむむ。
ちなみに、いま、日本語を教えるクラスで、「にょ」のひらがなの発音と単語を教えるのに、うまいフレーズが出てこず、、、苦心の末、「にょろにょろ」という擬態語を導入してみたのです。
そして、「にょろにょろ、と聞いて、どんな生き物の動きを想像しますか?」と質問。
日本人であれば、おそらく、100%の人が蛇がアタマに浮かぶと思うのですよね。けど、”にょろにょろ”になんの意味付けも持っていないポーランド人に聞いても、ぽかーん???という空気が流れるだけ。
で、蛇の動きを、にょろにょろ、と表現するんですよーーーーー、と説明することで、ほほぉぉぉぉぉーーー!となるわけです。
ついでに、クネクネした動きも、やってみせたりして。( *´艸`)
んで、ムーミンに出てくる”ニョロニョロ”をみせて、日本語での名前は”ニョロニョロ”です、と紹介すると、ものっすごい納得感。すでに、「にょろにょろ」がどういったものなのか、アタマにイメージがあるからですね。
(余談:ニョロニョロのポーランドでの名前は、Hatifnatowie。フィンランド語(原文)だとHattivatit。英語はthe Hattifatteners。)
にょろにょろ、という言葉の意味をしらなければ、ムーミンのキャラクターがニョロニョロだと言われても、ふーーーん、で終わるところが、意味を知ることで思考が限定される。ただ、アタマの中のモヤモヤは消える。さて、それは、自由を手に入れたのか、自由を失ったのか。
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