母の手掛けた食卓目指し、私は今夜もキッチンに向かう
おそらく多くの人にとってそうであるように、子供の頃の私にとって、何よりかけがえのない家族の時間は、「夕食の時間」だった。
それは、決まって19時に始まる。うだるような暑さの残る夏の浅い夜にも。オリオン座がまたたく冬の深い夜にも。
18時頃になると台所から良い匂いが立ち込めて、思わず母の背中に「今日のご飯なに?」と尋ねる。「焼き魚よ」と言われれば、ちょっぴり残念な気持ちになり、「ミートソースだよ」と言われれば天にも昇る気持ちになった。
夕食時には必ずと言ってよいほど家族全員が揃っていた。父も仕事を終えて帰宅していた。家族みんなで夕食を囲んで、母の作った美味しいあたたかい料理でお腹が満たされると、その日抱えていた悩みや辛いことが、ふわっと軽くなっていった。
幸せな夕食の時間を求めて試行錯誤
そんな私が母になって譲れなかったのは夕食の時間を大切にすること。
一人目の子の育休を終えた時は、共働きでお互いに外勤だった。時短勤務をしていた私は、退勤時間になると電車に飛び乗り、保育園に足早で駆け込み、大急ぎで帰宅して着替えると、懸命に遊んでほしがる息子の世話をしながら夕食準備を何とか進める。ようやくご飯にありつける頃には疲弊しきっていた。
旦那さんは、まだ会社で残業中。彼の夕食はラップをかけて冷蔵庫にしまう。きっと息子をお風呂に入れる頃には、帰宅して一人で食べるのだろう。「大変なのは今だけ」と周りから言われ、自分にもそう言い聞かせていた。
でも、どう考えても、子供の頃の幸せな家族の食卓にはたどり着ける気がしなかった。ワーキングマザー向けの、時短料理本、作り置き料理本、やりくり術みたいなのを求めて、本や雑誌を読みあさった。でもどれもピンとくるものがなかった。
例えば「作り置き」は、ワーキングマザーのやりくり術の基本中の基本だが、全ての料理を作り置きで回すのが、私はどうしても嫌だった。欲を言えば、新鮮な素材を扱い、その日のムードに合った料理を提供し、台所から良い匂いをさせて、出来立ての料理を振舞いたかった。一方で、時短料理と銘打つレシピを色々試してみるものの、これは!というものにはなかなか巡り合えない。
私はすごく贅沢なことを言っているのかもしない。そう思うしかなかった。
今までに無かったタサン志麻さんのレシピ本
そんな私がある日、タサン志麻さんを知った。タサン志麻さんは、フランスの三ツ星レストランで修業後、日本の老舗フレンチレストランなどでシェフとして約15年のキャリアを積んだのち、2015年にフリーランスの家政婦として独立された方だ。家庭料理にとても思い入れのある方で、そこに魅かれた。
志麻さんのレシピ本を初めて手にしたとき、これまでの他のレシピ本とは全く違うと感じた。とりわけ「伝説の家政婦 志麻さんがうちに来た!」を読んだ時は、志麻さんのこれまでのレシピ本とも、少し違うと感じた。
半分は、志麻さんのフランスでのご経験に基づいた料理&育児エッセイのようで、子育て中の方が抱える、食や料理に関する悩みにも、時には論理的に、時には寄り添うように、丁寧に答えてくれている。
例えば子供にどうやって野菜を食べさせるか。彼女は「野菜にほんの少し塩をふってじっくり炒めると臭みが取れて甘みを引き出せるので、野菜そのものを味わえるポタージュスープにしては?」と提案してくれる。実際に作ってみると、大人も唸るほどの美味しさ。志麻さんレシピの「人参ポタージュスープ」は、今や7歳の息子の大のお気に入りだ。
フレンチシェフとして育児中の母として、家族みんなで楽しめる料理はもちろんのこと、家族が華やかな気分を味わえる家庭料理を提案してくれるのが嬉しい。盛り付けもシンプルだがとても洗練されている。パリを訪れた際にビストロで頂いた料理そのものだった。
家族みんなの食卓は、実は短い期間限定
今は夫婦ともに在宅勤務する日も多くなり、状況はかなり改善したが、時間に余裕がなかったり、疲れているけれど華やかなテーブルにしたい時は、志麻さんのレシピに大いに頼っている。おかげさまで、私の子供の頃の幸せな食卓に少しは近づけつつある。
先日、今は車いす生活の母に「毎日あれだけの夕食作るの大変だったでしょ?」と尋ねた。「大変だったけど楽しかったわ。皆が美味しい美味しいって食べてくれて作り甲斐があったもの」と答えてくれた。「あっという間だったわ」、そんな母の声にならない声が聞こえた気がする。
今当たり前にある家族みんなの食卓は、振り返ってみると、とても短い、期間限定の食卓なんだと思う。だからこそ少しずつでも素敵な食卓にしていきたい。
今でも子供の頃の食卓を思い出すとあたたかく幸せな気持ちがよみがえる。そんな食卓を目指して、私は今夜もキッチンに向かう。
サムネイル写真:写真ACより