樹々が紡ぐ縁
樹々は人よりも長く生きる。
人の言葉の全てを犬や猫の動物が完全には理解しないように、
人もまた自分より寿命の長い樹々の全てを理解することが出来ない。
出来ないけれど、樹々には確かに人間の能力や想像の域を遥かに凌駕した叡智やネットワークがある。
成熟した樹々は明確に意志を持ち、我々よりも大きな視座を持っている。それぞれが独立したひとつの生態系を成し、調和のもとにさまざまな命を次世代へそのまた次世代へと繋げていく。
そして恐らく、どういう訳か、互いに遠く離れた樹々同士でも(特に種の近しい同士はなおのこと)何かの形でコミュニケーションが取れているような気がしている。
それは長くなるのでまた別の機会に。
宮澤賢治の雨ニモ負ケズという詩は、まさに樹々のようであると私はいつも思う。
雨ざらしに文句ひとつも言わず立派に高く真っ直ぐ聳える樹々を見る度、
互いに日差しを譲り合う樹冠の形を見る度。
「クラウン・シャイネス」日本語で樹冠の遠慮とも呼ばれるその現象は、
人が地面に境界を引くのとは全く正反対の
互いに譲り合い生かし合おうとする優しい境目のこと。
虫や鳥、微生物から人も含む大小の動物、他の草花など多くの生物の営みを支え、
水を蓄え、
朽ちてなお大地の栄養となり循環していく。
私たち人間が学ぶべき手本となる姿がそこにある。
更に古来より樹々は神々の依代となるとも言われている。
私自身「樹に呼ばれた」と思う経験が何度かある。
意識にも上らない深い所で私たちは互いの同意のもとに約束して出逢うべくして出逢う。
心を無にして、樹々の声に耳を澄ませる時
私たちは深い大地と宇宙との繋がりを、
そして他の命との繋がりの輪の中に戻っていく事が出来る。
樹々はいつも私達に多くを教えようとしている。