音楽で生きる4
トランペットの演奏を生業として生きるということを書きます。
普段は家の防音室で練習し、来る仕事をこなす、といった毎日になります。
では、来る仕事とは、、、、
レッスンについてです。
今までトランペットのレッスンを個人から学校の部活動、サークル等でトランペットだけ、金管分奏などと色んな指導をやってきました。
特に大学学生時から35歳くらいまで。
時には新潟県まで行き、同時に小学生から大人まで100人のトランペットのレッスンをしたり、(着くまで知らなかったからビックリ)
時には飛行機乗り出雲に行ったり
芸能人の方を教えたり
それもこれも始まりは高校生時代の頃でしてた。
当時川上がいた天理高校は、全日本吹奏楽コンクールに出場すると必ず金賞を取る学校でした。
写真にいらっしゃる恩師、寺島基史先生が1、2ヶ月に月に三日ほど集中レッスンを東京から奈良の天理市までお忙しい中、足を運んでいただき厳しくご指導いただきました。
人生の中でも一番濃い三年間を過ごせたと思っています。
で、印象に残っている言葉、それは
「誰がいようといまいと、自分が自分の中で一番の先生や、俺がいてもいなくても自分を厳しく監督できるのは自分だ」
「そんなんブレスなんてちゃんと深呼吸したらしまいや、呼吸法?今ちゃんと息吸ってるから生きてんのやろ?お前学校で授業受けてる時にちゃんと息吸おうとか考えんのか?足らんかったらもっと吸ったらいいだけのことや」
「部屋の隅っこまで耳を傾けて自分がどんな音だしてんのかもっと見張っとけ」
など。
とても必要な言葉をいただいていました。
当時のレッスンはトランペットの生徒が全員集まり、個人レッスンを一人づつ行い、いわば公開レッスンでした。
なので、同じようなことで悩んでいる生徒は他人のレッスンを見ながら、自分にも合った悩みをそれぞれピックアップして、情報を共有していました。
なので全員の癖や悩み、良いところも全て把握できたのです。
時には練習場の窓を開けさせて
「外に向かって叫んでみろー」
とか
どソロがあって緊張する先輩に
「ちょっと行くぞ」とトランペットを持ってそのまま外に出かけて二時間ほど帰ってこなかった。
で帰ってきた先輩はビチョビチョ。
滝に打たれてラッパを吹いて帰ってきたのでしたWWW
滝に打たれて
ダムに向かって
ドビュッシーの交響詩「海」のトランペットのソロを吹くw
川上は滝には打たれませんでしたが、本当に個性的な先生でした。
そのおかげで東京芸術大学にも入学できたのでした。
川上はモノマネが好きだったのでその人の特徴をつかむのが得意でした。
なので先生が東京に帰られてからも偽の寺島さんに自分がなりきってパート練習することによってパートがメキメキと上達し、三年生の時には三年生全員がベニスの謝肉祭のバリエーション全てを吹けるほどでした。まあ完璧でもなくテンポもゆっくりでしたがw
誰でも1stが吹けるほど。
レッスンを受ける側で大事なことは
受けている時ではなく受けた後、や先生がいない時。
そのあとの継続や自己分析をしっかりとしながら練習すること
本当にうまくいかないことはまたメモをして次回に質問する。
自分が自分を見張る一番の先生になること
これに限ると思います。
どんなに一流プレイヤーに習っても
レッスンを受けた後に瞬間的に出来ないことが瞬間的に出来たとしても
次の日にはまた「出来ない」ところからスタートするのです。
なので昨日言われた通りにもう一度やる
また少しずつ出来るようになってくる
その日も出来るようになる
その繰り返しによって習得に繋がるんですね
それを分かっていない生徒は
瞬間的にゲームの魔法を覚えたかのごとく次の日にも同じことができると思って継続してくれないんですw
そりゃあうまくならんねw
その後も継続して練習してね〜と必ずいうようにはしていますが、まぁ個人性格等あるのでまちまちですね。
のべ人数で行ったら500人以上の生徒は見てきましたが、一番の生徒は
https://ja.wikipedia.org/wiki/守岡未央
すすすごい、Wikipediaに乗っている。
川上でも乗ってないのにぃ。キィーw
素晴らしいプレーヤーです。
これからも頑張ってね、もりみちゃん
人を教えるのって勉強になります。
自分自身の状態も再確認もできるから。
20代は高校時代のとった杵柄で
コンクール賞の色を一つ上にあげる請負人
季節労働者的な吹奏楽コンクール仕事人
のようなこともしていましたが、今は特定の学校だけに絞ってレッスンをするようにしました。
疲れちゃうんでwwww
また時間と暇ができたらレッスンもやろうかなーとは思っています。
自宅防音室も24で音出せるようになったし。
ではでは