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定額給付金を寄付してみた話。

7月15日に、定額給付金、10万円を寄付しました。
いえ、実はまだ受け取りの申請はしていないのですが、先に寄付をしてしまいました。

この記事は、寄付に至るまでのぐるぐるめんどくさい葛藤を書き残しておこうというものです。最初にお断りしておきますが、とても長い上に散文、かつ特にオチのない内容です。

このお金、自分はもらっていいんだろうか

このお金、政府が一律給付を決めたときから、自分はどうしようか、もらうかどうかも含めて、ずっと悩んでいました。周りの人達はみんな当たり前のようにもらって、どう使うか、何を買うか、うきうきと考えたり話したりしているのに、自分は正直どうしたらいいのか、どうしたいのか、よくわからない気持ちがずっとありました。

政策としては、コロナ禍を受けて収入が減ったり、生活が困窮したりしているということを証明したりせずに、世帯主だけが受け取ったりするのでもなく、簡素な事務手続きで、できるだけ早く、一律にお金という形で支援するという方法には自分は大賛成でした。(もともとユニバーサルベーシックインカムには賛成の意見を持っていることも関係していたかもしれません。)
迷走しているような対応がずっと続いていましたが、最終的にこの形に落ち着いたときは、ひとまず「ああよかったなあ」と思いました。

けれど、その思いと、このお金をどうするかはまた別の話。

このお金はなんのために給付されるのか

まず、この給付金はなんのために給付されるのでしょうか。
その目的は、閣議決定の文書に書かれていました。

4.生活に困っている人々への支援
新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言の下、
生活の維持に必要な場合を除き、外出を自粛し、人と人との接触を最
大限削減する
必要がある。医療現場をはじめとして全国各地のあらゆ
る現場で取り組んでおられる方々への敬意と感謝の気持ちを持ち、
人々が連帯して、一致団結し、
見えざる敵との闘いという国難を克服
しなければならない。このため、感染拡大防止に留意しつつ、簡素な
仕組みで迅速かつ的確に家計への支援を行うこととし、一律に、一人
当たり10 万円の給付を行う。
新型コロナウイルス感染症緊急経済対策(令和2年4月20日閣議決定)

前の部分がずいぶん長くてわかりにくいなあと感じるのですが、つまり直接的には「家計への支援」というのが目的だと書いてあります。さらに、その題目には「生活に困っている人々への支援」とあります。
外出自粛、人との接触機会の削減、医療従事者などの方々への感謝、人々の団結といったことは、「国難の克服」のために必要なことだと述べた上で、国難の克服のために家計への支援行うことが必要なのだ、という文脈なのかなと読みました。

目的を整理した上で

さて、じゃあ、自分はコロナ禍を受けて生活に困っているだろうか?

A いいえ。

コロナの前後で生活スタイルはほとんど変わっていないし、仕事が減って収入が少なくなってしまったということもない。困っている感じはしない、というのが実感です。むしろコロナ関係なくお仕事が増えていて、収入は少し増えているかもしれません。

そりゃあ、予定していた出張の予定や、参加や運営することになっていたイベントや、遊びに行く計画や普段やっていた合唱の練習や飲み会がなくなってしまったり、という影響はあります。だけど、それで生活が困っている、という状況には全然なってない。

でも、みんながお金をもらって喜んでいるところを見ると、お金が足りていなかった、ということなのかもしれないと思ったりもする。普段足りていなかったんだとしたら、それは困っていたんだ、ということなのかもしれない。

じゃあ、困ってない気がする自分はもらわなければいいのかな?と考えていたら、
経済を回すためのお金なんだから、もらってちゃんと使わなきゃ
とも言われました。うーん、そうなのかな?

家の外壁の修理をする
貯金に回す
前から欲しかったゲーム機を買う
服を買う

みんながそんな話をしている中で、まだ申請もしてないと言ってみたら、心底驚かれたり、え、無欲なの?と言われたりして、自分はそんな決断もできないことに、情けない気持ちになったりもしていました。

ある人は、
今はそんなに影響がないけど、この先コロナで景気が悪くなると、給料が減らされるから、ちゃんと受け取って貯金しておくんだよ
と言っていました。
その人は公務員で、リーマンショックの後、いろいろな手当が減らされてしまって予定していたことができなくなってしまったことをよく覚えているそうです。

けれど、それぞれいろんな意見を持っているのを聞いた上でも
もらってちゃんと使わなきゃ、効果がない(経済刺激が目的)
お金に困るかもしれないから、もらっておかなきゃ(仮定法)
ただでもらえるのに、もらわないのはもったいない(機会損失)
というのには、どうしてかしっくりこないものがあったのです。

はっきりとしたものがあるわけじゃないけどしっくりこない。
だけど、どれについても同じようにそうかもな、と思う自分もいる。

使うことで応援(何をかはわからないけど)すべき?
転ばぬ先の杖は必要でしょう?
リスクマネジメントを考えたら当然でしょう?
正直者がバカを見るんじゃないの?
もらっても誰にも怒られないよ?
お金があったらおいしいものも食べられるよ?
自分にはそんなに欲しい物はないかもしれないけど、友だちには何か買ってあげられるよ?

どれももっともな意見だなあと思う。
逆に、もらわないという選択肢に対しての後ろめたさも、正直ある。

どうしてもらわなかったのか、説明する億劫さ。
もらわずに、もらったことにしたふりをする、という気分の悪さ。
困っていないアピールをしたいだけかもしれない、という自信のなさ。

だけど、もらわなくてもいいと思っているのにもらうことに対しての後ろめたさも、同じようにある。

必要ないのにもらってしまったことへの罪悪感。
もらうために払われる手続きのコストが無駄になるような罪悪感。
もらわなくてもいいと思っていること自体のおこがましさのようなもの。

こうやって、どんどんぐるぐるごちゃごちゃしてしまうのです。

この気持ちはどこからくるのだろう

それもこれもきっと、お金に対する、ある種のコンプレックスがあるんだろうと思います。お金に対するおぼろげな恐怖心のようなもの。お金をもらうことに対しての罪悪感。自分のためにお金を使うことについての居心地の悪さ。

いまのお仕事ではいわゆる「ボーナス」というのが出るのですが、これがなぜもらえるのか、いつまでもよくわからない。しっくりこない。普段のお給料だって、一人で今を生きるには十分すぎるくらいもらっているのに。なんで自分に、こんなにたくさんのお金が渡されるんだろう。全然わからない。

その根底には、お金についてとりわけ不安定な暮らしをしてきたわけではないけれど、いろんな経験から、できるだけ節約して暮らすべき、多すぎるお金は身を滅ぼすし、お金はいつかなくなってしまうものなんだ、という感覚が、たぶんどこかに染み付いているのだと思います。あのベストセラーでいうならば、完全に「貧乏父さん」の考えです。

だからといって、必要な分だけ残して残りの資産を全部どこかに寄付できるような気概も勇気もない。「今を」生きるには十分でも、果たして「将来を」生きるには十分だろうかと、ちゃんと考えているわけでもない。というか、考えないようにしているところがある。そのことも薄々知っている。
そういう、未来の持つ不透明さに目を瞑っている。

そんなことを考えている一方で、友人や仲間のためにお金を使うことについては、自分のこととしてお金を使うよりハードルが下がります。これは不思議なことなのだけど、同じものを買うとしても、自分が欲しいものを買うときよりも、人が欲しいと言われたものを買うほうが、心理的な抵抗がずっと少ないのです。

で、やっぱりもらうことにした

要するに、自分以外のことで納得できる使い方ができるなら、お金を使うことに対してハードルが下がるのです。だから、そういう使いみちで、そのお金の趣旨に合うものが見つかるなら、もらうことにしよう。そうすれば、自分を納得させることができると思いました。

最初に考えたのは、もらったお金を友だちにあげることでした。特に、イベントの運営をやっていたり、飲食店を経営したりしている友だち。その心はもちろん、このコロナ禍にあって、とても影響を受けているだろうと思われるからです。
だけど、彼らに直接お金を渡すのは難しいと思いました。それは、自分はそう思わなかったとしても、対等な関係である友人関係で、一方的に大きなお金を渡すことは、ある種の不平等というか、不均衡というか、対等ではない関係性を生んでしまう可能性がある、と思ったからです。

彼らがそれぞれ、寄付を募ったりクラウドファンディングを行ったりしていれば、そうしたハードルはなくなったと思います。けれど、そうではなかった。一方で、そういう人達を広く支援しようという動きでは、彼らに支援が届くように思えなかった。(もちろん届いたかもしれません。だけど、自分にはそう思えなかった。)

次に考えたことは、自分の納得のいく、自分の考えるよい世界に向かうための取り組みにお金を使うこと、です。それは、コロナ禍とは直接関係のないことで、真っ先に浮かんだのは脱炭素(気候変動対策)や再生可能エネルギーへの取り組み。それも、投資やグリーンボンドのような目的を限定した債権。寄付は、そのお金がどのように使われるかがわからないので、投資や債権によって、このお金をもとにして、それに関する価値を継続して増やしてもらえるようなことを応援できればいいなあと感じました。

だけど、色々考えているうちに、やっぱりそういうことは、自分のお金を使ってやるべきだなあと思うようになりました。向こうからやってきたお金では自分の懐は痛まないので、普段なかなか手が出せない誰かや社会のためになるようなことでも挑戦できるかもしれない。でも、例えそのリターンを懐に収めずにまた同じような取り組みに投じたとしても、それはやっぱり向こうからやってきたお金を自分の都合のいいように運用しているようで、無責任なような気がしました。それに、コロナ禍を受けて生活に困っている人のためになってない。(お金はめぐって、そうなるのかもしれないけれど。)

だから、コロナ禍と関係のあることから選ぼうと決めました。

そしたら、たくさんある支援などの取り組みの中から、お金を使う先を選ばなければなりません。それは、お金を使う上で何が「もっともよいこと」かを、自分の中で決めなければならないということ。それはまた、とても難しいことです。

いい わるい すき きらい
こういうことがぐるぐるわからなくなりがちな自分は、自分がどうしたいかに自信がなくなりがちです。

主旨からして、困っている人のためになるように使いたい、と思っている気がする。せっかくなら、10万円というお金を、少しでも効果的なことに使いたい、と思う。消費に使って経済を回して、困っている人に届けるという考えもあると思うけれど、どれだけ経済を回しても恩恵が届かないところがある。だったら、そちらに届けたほうがいい気がする。

ふるさと納税は、実質手数料2,000円の納税と変わらないので、その分足元の納税先の税収が減ってしまうことに違和感がありました。定額給付金は結局非課税になったので、向こうからやってきた非課税のお金を使って節税をするような感じがどうも納得できませんでした。(個人的には、所得に応じた負担のことを考えると、給付金は課税対象にした方がよかったんじゃないかなと思っています。)
納税は義務として、自分の収入からちゃんと別に収めることにしよう。

結局どこに寄付したか

じゃあどうしよう、と考えていたときに、「コロナ禍で病院の収支が悪化して、医療従事者のボーナスは多くで減額されてしまうようだ」というニュースが耳に入ってきました。自分のボーナスは出ているのに、たいへんな思いをしながら働いている医療の人たちに渡るお金は減ってしまうというのはなんとも理不尽なことだなあと強く思いました。

そこで、医療従事者の人たちに届けられるような寄付先、医療物資の支援ではなく、医療従事者の支援のための寄付先を探すことに決めて、地元の北海道銀行がやっている医療従事者応援のための募金口座を見つけて、寄付をしました。

20200715_道銀に寄付_note

あのぐるぐるはなんだったんだろう

悩み事はいつもそうですが、決めてからはあっけなかったです。そこまでの道のりは全然整然としてなくて矛盾が溢れているのだけれど、終わってしまえば、案外けろりとしてる。あのぐるぐるは何だったのか。もうわからない。

何も言わずにすぐ行動できる人がたくさんいる中で、自分はなかなか決められずにぐるぐるしていることは相変わらず恥ずかしいのだけど、そのぐるぐるは書き残しておきたいなと思ったので、ここに書きました。

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