アクロバティックな論理展開で、同性カップルの人間関係を規定する法制度の不存在が憲法24条に反し違憲と主張する札幌高裁の判断に対する、立法不作為を理由とした違憲判断の権力分立と民主主義への侵襲の観点からの批判
序
令和6年3月14日の札幌高裁の判決に関し、権力分立が保障された国家の主権者たる一国民の立場から、アクロバティックな論理を以て権力分立と民主政への侵襲性が最も高い立法不作為への違憲判断を行った裁判官3名の、国家権力を壟断する振る舞いに対して以下に厳しく批判をしたい。
札幌高裁判決全文
https://www.call4.jp/file/pdf/202403/04097ed5db19a01e5f19d1c99857d8be.pdf
本批判を行うに当たっては、前提となる憲法制度と統治機構論に関する知識が必要である為、長くなるがそこから始める。
権力分立と違憲審査制
権力分立についてのよくある誤解
まず、統治機構の初歩的な話として、違憲審査権とは権力分立の要素ではない。この点について、日本の初中等教育では原理的な権力分立の理念と、日本のローカルな統治機構の設計の話を一緒くたにし、権力分立に対する修正である議院内閣制や違憲審査制を権力分立の要素の如く記した図が広く用いられている。あの図は、小中学生向けとしてはこの程度に覚えておけばテストで点を与えるというポンチ絵化した方便の類であり、言ってしまえば子供向けの嘘であるが、高等教育等でその知識が更新されず、その内容を真に受けたまま成人する国民も多い。しかし、初中等教育でよく見る図のような権力分立の理解は厳密に言えば間違いである。
権力分立は、自由主義者や個人主義を保障を目的とし、強力過ぎる統治権力が出現することを阻む為、国家の統治権を分割し、互いに独立させることで国家を専制的に主導できる権力の出現を防ごうとする統治機構設計の知恵であり、分立された統治権力間の独立を重んじる。
余談ながら、権力分立を指してその最もポピュラーな分立の形である「三権分立」が「権力分立」と同義語のようによく用いられるが、厳密に言えばこの両者も違う。分立させる統治権力の数が3である必要は特になく、実際台湾(中華民国)の憲法上の統治機構設計などは五権分立になっている。また、日本やイギリスで採用される議院内閣制は、議会(立法権)と内閣(行政権)の接合度が高く、議院内閣制を採用し、司法権が分立している国の統治機構については、これを二権分立と称する向きもある。首班指名や議会の解散権が権力分立の要素でないことは言うまでもない。
話を戻して、権力分立という統治機構設計の思想は、個人の自由を圧迫し得る強力な権力の誕生を妨げる為、分割した権力を互いに独立させる事がその眼目であり、日本の初中等教育で覚えさせる相互間の介入は本来権力分立の内容ではない。それらの介入は基本的に権力分立に対する修正である。
権力分立は、統治権を分割し互いに独立させ、専制を行い得る強力な権力の出現を妨げることを目的とするが、現在の世界に完全に厳密な権力分立を行っている国は(恐らく)無く、世界各国の統治機構設計において権力分立の設計には様々にローカルな変更が加えられている。そして日本の統治機構設計における権力分立へのローカルな修正点が、先程から幾度も述べている「議院内閣制」と「違憲審査制」である。
くどいようだがもう一度言うに、これらは権力分立に対する修正であって、断じて権力分立の要素ではない。
権力分立に対する修正としての違憲審査制の起源
違憲審査制は、植民地として本国議会に蔑ろにされた歴史から権力不信の文脈を強く持つ、コモンローの国にして「自由の国」アメリカにおいて判例法理として生み出された、司法権が他の統治権に対して優越性を持つ、権力分立に対する特殊な修正である。
アメリカで生まれた、司法府が違憲審査権というある種超越の権力を持つ制度は、権力分立の体制に対する極めて大きな変更であり、当然に権力分立をゆるがせにする危険を持っているが、個人の自由保障を最大の目的とする近代的憲法秩序の下において大きなメリットもある。
民主政が内包する、多数派による専制リスク
民主政は、多数派による専制のリスクを原理的に孕んでいる。つまり、民主的に正統な議会権力が、多数派による正当な権力行使として、少数派に対し「お前らの自由や財産を奪う」と言い出すリスクが原理的に存在する。
近代的な憲法体制とは、そのような民主的に正統な権力が個人の自由や財産を奪おうとするときでも、ただ個人で「私の自由や財産を奪うな」と言える権利を保障しようという、自由主義と個人主義が生み出した発明品である。この理念が「人権」という概念を発明していった訳でもある。
個人の自由と財産の不可侵を保障した憲法を定めた上で、法律を制定するにはその憲法の規定に反してはならないという秩序が打ち立てられば、それで個人の自由と財産(本来的な意味での人権)は、正統な統治権力による専制からも本来保障されるはずである。
しかし、個人の自由の保障を目的とし権利の章典を定めた憲法を最高法規とする秩序を確立し、更にその目的を確固たるものにするため統治機構の設計において一個の強力な権力が誕生するのを防ぐよう統治権力を分立させた統治機構設計を憲法上定めても、個人の人権保障にはまだ危険があった。具体的には、民主主義の国において圧倒的大多数の「みんな」が、少数派からその自由や財産を奪ってよいと言い出したとき、一体誰がその国において最も正統な権力者である「みんな」を現実に止め得るというのか?
多数派による専制への歯止めとしての違憲審査制の意義
直接民主政を採らない殆どの民主主義国では、この「みんな」の権力は、選挙で選ばれた議員たちによって構成された議会(立法府)や、議会によって又は議会とは別個に選挙で選出された政府の長(行政府)を通じて行使されることになろう。彼らが正当な手続きを通じて少数派の自由や財産を奪おうとするとき、憲法上の正論として少数派であろうと全ての個人の自由や財産が公権力による侵奪から保護されていると主張しても、少数派の自由や財産を奪っていいと言い始めた「みんな」がそれを聞き入れる可能性は小さく、憲法上に個人の自由や財産の保障を謳い、専制者となり得る巨大統治機構の出現を防ぐ権力の分立を定めただけでは、「みんな」がやって良いと言い出した多数派による専制を止める手段に乏しい。
そのようなとき、非民主的に構成されることが多い裁判所(司法府)が、個人の自由や財産の保障の為、手続き的には正当な議会や政府の民主的権力行使に対してであっても、憲法に違反して個人の自由や財産を侵害するものは止め得ることに司法府による違憲審査という制度の意義がある。
違憲審査制の継受と慎重論
アメリカの判例法理から生み出された違憲審査という権力分立に対する修正は、現代ではその意義が認められ自由と民主を基本とする多くの国で様々なローカライズをされながら広く採用されているが、その導入に当たっては自由民主主義諸国において多くの議論が巻き起こった。
言うまでもない話、いずれかの権力が違憲審査権を有するものとしてその権能を行使するとき、その行使は明白に権力分立を侵す。更に、違憲審査を行う権力が非民主的な権力であるとき(アメリカ型がその典型)、その行使は民主主義とも鋭く対立する。このような違憲審査制は民主政や権力分立を侵すという問題から、当時アメリカ以外に自由主義と民主主義の価値観が確立されていた欧州諸国では、その導入には慎重な議論も多かった。
権力分立と民主政を侵襲する違憲審査制とのアメリカの向き合い
違憲審査制が権力分立や民主主義を侵すという問題は、様々な議論を繰り広げながらも各国でローカライズしてそれを継受していった欧州諸国に限った問題ではなく、その制度の生みの親であるアメリカにとっても当然向き合うべき課題であった。その発祥から当然であるが、アメリカでは裁判所(司法府)が違憲審査権を有する。裁判所が違憲審査権を行使するとき、それは司法が行政や立法といった他の統治権に対し優越する立場から、国家権力の統制を可能とする権力であり、その様な権力は本来権力分立の思想が警戒する対象でもある。
しかも、アメリカにおいても裁判所の構成は非民主的な要素が強く、その非民主的性質は民主的な権力が少数派の人権を侵害することを阻む場面で重要になるとしても、議会や政府(大統領)といった民主的に選ばれた機関に対して裁判所の優越を認める制度は、反民主主義的な側面が否定できない。
そのため、判例法理の中で違憲審査制を生んだアメリカでは、この超権力が民主主義や権力分立の制度を破壊してしまわぬよう、ブランダイス・ルールといった違憲審査権を行使するにあたって従うべき、抑制的準則も生み出した。
ブランダイス・ルール
占領統治下におけるアメリカ式違憲審査制の日本への移植
日本においては米軍の占領統治下で、裁判所(司法府)が違憲審査権を行使するというアメリカ式の違憲審査制が、ほとんどローカライズされることなくそのまま移植されたが、社会科教育の残念な結果として、違憲審査制と民主主義・権力分立の間に存在する緊張関係が殆ど国民に認識されていない。本来、日本の主権者たる国民は、統治権の一角である司法が恣に権力分立の則を越え、いたずらに権力分立を侵襲する専断的な権力と化さぬようチェックする厳しい目を向ける責務があるにもかかわらずである。
民主主義国の主権者である国民は、その主権者としての目線から、司法府による違憲審査権の行使に対し、それが非民主的な機関でありながら権力分立の則を越えて、国会や内閣といったより民主的な権力機関に対する過剰に侵襲的な権限行使となっていないか留意する必要がある。
権力分立や民主政への侵襲の度が極めて大きい「立法不作為」という違憲判断
本質的に権力分立の理念と対立する違憲審査権の行使の中でも、特段に権力分立と民主主義への侵襲の度合いが高いものが立法不作為に対する違憲判断である。
裁判所の行使する違憲審査権は、原理的に権力分立と民主主義を侵襲する。しかし「多数派による専制への歯止めとしての違憲審査制の意義」で述べたような、民主的な権力が少数派の人権を奪いに行くようなとき、それを「止める」ことの価値は現代において確固として確立していると言える。
であるが、こと立法不作為に対し裁判所が違憲を判断する是非は、現代においても尚議論が多い点である。そもそも法律を制定する立法が民主的に選ばれた国会のみが行える専権事項であることは、全ての日本国民が知る常識の範疇であろう。
しかしである、「立法不作為」つまりある種の法律を国会が定めないことを裁判所が違憲審査権に基づき「違憲」と言うとき、それは非民主的な機関である裁判所が、一定の法内容を指定して国会に対し事実上立法の命令を行う実質を持つことになる。
これは違憲審査権の行使の中でも、民主主義と権力分立に対する侵襲の程度が最大のものであって、違憲審査制に価値を認めた上でも尚議論すべき点があり、その上で尚その権限を行使しようとする場合、裁判所(司法府)には最大級の思慮とか覚悟が要求されて当然のものである。
小括:権力分立や民主政への侵襲性の観点から見た札幌高裁の違憲判断
今回の札幌高裁の判断は、極めてアクロバティックなロジックを展開し、憲法条文の文言からの乖離が甚だしい結論を導いて立法不作為の判断を行っており、非民主的な公務員でしかない裁判官が、このような形で民主主義と権力分立を最高度に侵襲する違憲審査権を行使するのは、主権者たる一国民からして目に余る立法権の壟断である。
日本国憲法が基本的価値とする自由主義や個人主義と無縁な「結婚」という制度
結婚のような制度は自由主義や個人主義が国家に制定を要求するものではない
次に、札幌高裁のロジックを具体的に批判する前提として、そもそも結婚・婚姻制度というものが如何なるものかを考察しておきたい。札幌高裁は、今回の違憲判断を述べるにあたり「婚姻の自由」という概念を曲解的に強調しているが、本来婚姻のような制度は断じて自由主義や個人主義が要求するものではない。日本国憲法をはじめとする近代憲法が、個人の自由を保障する自由主義と個人主義を最重要の理念におき、その保障の為に定立されるという点は法学界に異論の無いところであるが、個人の自由を尊重する個人主義や自由主義といった理念は、決して国家に対し個人的な人間関係を規定する法制度を要求したりしない。
自由主義社会において、そこに生きる個人の人的結合関係などは、全くもって個々人の自由にすればよいことであり、国家と無関係に個人が自由な人的結合関係構築しようとするのを妨げる権力行使が行われるなら、それはまさしく人権侵害として憲法問題のど真ん中の問題になるが、逆に国家に対して個々人の人間関係を規定する法律を作れなどと言う要求は、自由主義や個人主義の理念からは出て来ようがないものである。
大体、結婚制度の内容を具体的に考えてみても、結婚した当事者間では生活保持義務や貞操義務、同居義務といった両者の自由を強く拘束する法的義務が生じる。その関係に入るや、両者には同居の義務が生じ居住移転の自由が制限され、更には婚姻する相手と意外とは性行為が禁止されるという性的な自由も厳しい拘束下に置かれるという、法律によって人的結合関係を規律した制度などを、自由主義や個人主義があり得るはずがない。その「契約を行うこと自体の自由」が保障されるとしても、この法制度がおよそ自由主義に由来するようなものでないのは明白であろう。
反自由主義的とさえ言える制度が日本国憲法下でも存在する理由、社会の再生産単位としての結婚
個人の自由の尊重を至高とする憲法秩序の下で、何故この様な反自由主義的な制度が存在するかと言うなら、それは自由主義や個人主義が発明される遥か以前から、人類の歴史上およそ時と場所を問わず、人類社会が発生したあらゆる地域において、何がしか「結婚」類する、男女のつがいを社会的に承認し、そのつがいが子をなし親として子を育てることを促す制度が普遍的に存在していたからに他ならない。
人間にとって男女のつがいとは、社会再生産の最小単位であり、その社会そのものを再生産する為に、社会が男女のつがいを促し社会的に承認する制度は、洋の東西や時代の古今を問わずその社会そのものを存続させる為に、あらゆる人類社会において何がしか存在していた。
これは、自由主義と個人主義を至上の価値とする社会であっても、結局その社会自体を再生産する為に、その根本的性質が反自由主義的なものであっても尚「結婚」に類する制度が存在し続ける理由でもある。
社会の再生産のために個人の意思が蔑ろにされ結婚を強いられた時代への反省としての憲法第24条
戦前の日本では、この「結婚」が家や国の再生産の為だけに、個人の意思を越えて家や社会によって強いられることがままあった。憲法第24条から要求され得よう「婚姻の自由」とは、そのような家や社会の意向によって婚姻が強いられたことへの反省から、婚姻の制度自体は今後も存在し続けることを前提とした上で、個人の意思を越えて家や社会から結婚を強いられる制度でああってはならないという意味の「自由」である。そこには、両性の間で行われる婚姻制度が存在する社会を前提に、婚姻を行うかどうか、行うとするなら誰と行うかは両性の自由な意思のみに委ねられるという意味以外見い出しようがない。
自由主義や個人主義の立場から見た婚姻制度
そもそもが反自由主義的な制度である婚姻という制度に対して、自由主義的な態度を貫徹するとしたら婚姻制度廃止以外の結論などなく、自由主義と個人主義を最も基本的な価値に置く憲法が、国家に対し個人の人的結合関係を規定した法制度を作れと要求することなどは論理的にあり得ない。
それを極めて曲解的なロジックにより、国家がある特定の種の人間関係を定めるために法制度を定立しなければならないと憲法が要求しているなどと述べる主張は、現憲法が基底とする自由主義や個人主義も、それら以前から人類社会に普遍的に存在する男女のつがいを促す制度の由来も全く理解していない愚論と言う他ない。
同性間でカップルになったり同性愛行為を行うことは、自由主義国家において全くもって自由に行われて当然である。しかし、国家に対しそのような人間関係を規定する法制度を作れと要求することは、自由主義や個人主義とは全く関係が無い。
自由主義や個人主義はむしろ国家による個人的な人間関係規定の法制度を否定する側にあり、自由主義や個人主義から国家にその様な制度創設を求める主張が出る余地はなく、それら理念を基本とする憲法が結婚に類する制度を要求しているなどと言う、札幌高裁の曲解的な「婚姻の自由」論は根本的に失当である。
同性カップルの人間関係を規定する法制度の不存在が立法不作為として憲法第24条1項2項違反と判断した札幌高裁の主張への批判
長くなったがこれら諸点を踏まえて、以下本題である札幌高裁の違憲判断への批判に入る。
立法不作為の判断を行う前提としての憲法解釈を法令の解釈と同じように自由に行って構わないと主張する札幌高裁
札幌高裁は憲法第24条が同性での結婚を本来想定していない事実を一旦認めた上で以下のように言い出す、
驚いたことに、権力分立と民主主義への侵襲の度合いが最も高く、現代においてもその行使に慎重な議論が求められる「立法不作為の違憲判断」を行うにあたり、札幌高裁は「法令の解釈」と同じように、文言の内容から明らかに乖離する形でも自由な憲法解釈を行ってよいと述べているのである。
この点の問題を全ての読者が理解できるように長々と前提についての説明を行ってきたわけであるが、そんな馬鹿げた話が有っては堪ったものではない。
これは権力分立を侵襲し、民主主義と厳しい緊張関係にある違憲審査権を行使しようとしている場面だ。それも唯一の立法機関であり日本国内で最も民主的な国権の最高機関である国会に、一握りの裁判官たちが実質的に立法命令を出す立法不作為の判断を行う、違憲審査権の行使の中でもとりわけ権力分立と民主政への侵襲度が高い違憲審査権行使をするにあたっての憲法解釈である。
そのように自由な憲法解釈で、憲法の文言から明白に乖離した要求までも裁判官が勝手に憲法の内容として新造し、同内容を満たす法律が存在していないのは違憲として、国会は裁判官の要求する法律を作らねばならない言えるなら、裁判官こそが自由な憲法解釈を建前に望む通りの立法を国会に対して命じることが出来る「唯一の立法機関」を越えた、国会に上位する真の立法機関となる。
この点に問題意識を有する民主主義国家の主権者たる一国民として、これが最も言いたいことであるのだが、本判決を書いた札幌高裁の裁判官たちは民主主義と立法をなめるのも大概にしろ。
答弁書における被控訴人の言葉を借りるが「法の解釈に際し,文言の日本語としての意味や文法が重視・尊重されなければならず,文言からかけ離れた解釈が許されない」などは、法令の解釈においても前提としてまず当然に合意されるところである上に、ことが立法不作為を違憲と判断しようとする前提の憲法の解釈にあたって、法令の解釈と同じように自由な解釈などをされて堪るか。
どうせ上告するだろうと軽く考えでもすれば、これほど軽々しく論理で、たかが3人の裁判官が唯一の立法機関である国会に立法を命令する実質を持つ、民主主義と権力分立を最大級に侵襲する判断が行えるのか。
極めて重要な点なので再度強調するが、違憲審査権の行使として立法不作為を違憲と判断する行為は、非民主的に選ばれた一握りの裁判官による実質的な「立法命令」であり、そのような民主政と権力分立への重大な侵襲を伴う判断を行うあたって、文言の意味するところから決定的に乖離し、尚且つ裁判官自身も制定時にそのような想定をされていないことが分かっている条文に全く異なる意味を持たせた自由な憲法解釈の上で立法不作為を違憲と出来るなら、もはや裁判官は憲法の条文に全く書き込まれていない文言と概念を勝手に憲法の命じるところと称し、如何様にでも自在な立法を少数の裁判官たちだけで行える、民主政のハイジャッカーにして権力分立を破壊する、権力分立の理念がその登場を警戒する巨大な権力を恣意的に振るう専制者そのものとなる。
憲法24条1項が同性間の婚姻も保障しているとアクロバティックな論理展開を行う札幌高裁主張への批判
また札幌高裁は次のようにも主張する。
一顧だにする価値がない謬論である。「日本国憲法が基本的な価値とする自由主義と本質的に無関係である婚姻制度」で述べたが、結婚のように社会が男女のつがいを促し承認するタイプの制度は、自由主義や個人主義が発明される以前から洋の東西時代の古今を問わず、ほぼあらゆる人類社会において見られる、社会の再生産の為のプリミティブな仕組みであり、24条1項は社会の再生産のため、個人の自由を犠牲にして結婚が強いられることがあった時代への反省から、「結婚が強いられない自由」を保障した意外に読みようがなく、「同性間の婚姻についても、異性間の場合と同じ程度に保障していると考えることが相当」など主張は、アクロバティックな論理の飛躍が過ぎている。
酒場で酒でも飲みながら、このようにアクロバティック憲法論をぶっているだけなら、呆れるにしても好きにすればよいのだが、この裁判官たちは、民主主義と権力分立への侵襲性が最も高い、立法不作為の違憲判断の前提に、このアクロバティックな議論を展開しているのである。
札幌高裁は判決に当たり『認定事実については、次のとおり補正するほかは原判決「事実及び理由」の「第3 当裁判所の判断」の1に記載のとおり』として事実認定を札幌地裁判決から原則引き継いでいるが、札幌地裁判決でも同性カップルに関する法制度の不存在を憲法14条1項に反し違憲としつつも憲法24条1項2項に反しているとはしていない。
当然であろう、標準的な日本語読解力を持つ人間なら、誰がどう見たところで憲法24条の条文に存在する「両性」の意味は男女以外の意味に取りようがなく、憲法制定時にこの条文が同性カップルに関する法制定を議会に命令していないことも自明である。
個人の尊厳の実現には、家族とそれを保障する国家の制度が不可欠と主張する札幌高裁の特異な「個人の尊厳」観
更に札幌高裁は以下のような主張も行う。
率直に言ってしまうが、こいつらは何を言っているのだろう。この言い分を真に受けるなら、一生独身であり続ける選択をした人間や、個人の自由な関係として交際はしても法律婚は行わない選択をしたカップルは、個人の尊厳の実現が不可能な者たちになりそうである。
この裁判官たちの言い分を真摯に受け止めるなら、日本国民は個人の尊厳を実現する為には家族を持ち、その家族を制度的に承認してもらうよう国家にすがる他なくなるが、正直取り合う価値さえない馬鹿げた主張であろう。
百歩譲って、法制度によって規定された家族にならなければ個人の尊厳は実現不能という話が社会的現実としてある仮定しても、自由主義や個人主義、そしてその価値を基本とする憲法秩序が、そのような「個人の尊厳実現」の為に国家に対して個人の人間関係を規定した法制度を作れと要求することなどあり得ない。
それは全くもって自由主義・個人主義の放擲に他ならず、家族を単位とする制度的な保障によって個人の尊厳が実現可能などの主張は、国家を偉大な父として仰ぎ、その保護の下によってのみ個人は幸福になれると主張する、国家によるパターナリズム礼賛以外の何だと言うのか。
結語
齋藤清文、吉川昌寛、伊藤康博の3名は全くもって自由主義にも個人主義にも、その価値観を基本とする憲法秩序にも理解が無く、立法不作為の違憲判断が有する、権力分立と民主主義に対する巨大な侵襲性を顧慮する裁判官に求められる知性さえ欠き、法令解釈と変わらぬ「自由な憲法解釈」でアクロバティックに過ぎる論理を展開して、文言から明確に乖離する形で憲法24条が同性カップルの法制度制定を国家に要求しているというおよそ自由主義や個人主義が要求する筈のない結論を導き、一握りの法服の公務員風情が民主主義と権力分立を侵し、このように拙劣でアクロバティックな論理で国権の最高機関にして唯一の立法機関である国会に対して実質的な立法命令を行えると思い上がった姿勢は、民主主義国の主権者たる一国民の視点から見て、国家権力を恣に壟断する法匪ども評する他ない。