死なないためにnoteで日記をつけることにした
ふらっと飛び込みたくなる線路というものがある。
朝10時のJR横須賀線の鎌倉駅は視界を遮るものが何もなく、晴天であったことも作用してか、あ、飛び降りたら気持ちよさそうだなと思った。
その日は友人と待ち合わせをしていたが、少し遅れるとのことで、自販機でミネラルウォーターを買い喉を潤した後、改札内のベンチに座り、電車内で読んでいた文庫本の続きを読もうと本を開きかけた時、おあつらえ向きの線路が視界に飛び込んできたというわけである。
最近こういうことがよくある。
神保町のA5出入口に入るために渡る横断歩道の信号を待っている時や、パートナー(正確には異なるためこれについては今後話したいが今回は省略)の家に向かう途中にある広場を通り抜ける時など、状況は様々。ふいに、あー全部まじでどうでもいいから捨てるか!と思うのである。
最近、聖(筆者)がそう思う背景には、2つの理由があるとわかってきた。
1つめは、自分と他者との境界がわからないこと、2つめは生きていることと死んでいることに大差がないと感じることである。
ある程度の人間の思考ならトレースできるだろうし、記憶も体験も、想像するだけで全て完結する。実際に体験することに意味があるんだ!といった反論は最もだが、実際に体験したのと同じだと錯覚することは容易だと思う。人間が理解したと思っていることはすべて錯覚か、そういう解釈・納得を自分の中でしているに過ぎない。自分についても他人についても、全てわかるし、全てわからないというのが論点である。
また、生きていることと死んでいることの違いについては、外部に何かを出力できるか否かのみに尽きると考える。現在の聖は休職中で、何の生産性も影響力も持ち合わせていない人間であるため、ほぼ死んでいると言ってもよい。(書くのが面倒くさくて相当はしょったので意味不明ですみません)
そんなわけで、軽い自殺衝動と仲良くやりながら、毎日生きながらえているので、何かはじめるか~と思いたってnoteをはじめることにした。
聖の爪は自宅用のノートPCのキーボードを叩くには長すぎて、また、可愛すぎるので、文体はめちゃくちゃで不揃い、誤字脱字も散見されると思われるが、校正ツールにわざわざかけるのも面倒なので、他人の日記を読む感覚で見ていただけると助かります。もうですます調に語尾が変わってきてしまったため、今回はこのあたりで。次回以降は好きなものや人について書こうかな。
(※ちなみに、ユーザーネームの聖は、「ひじり」でも「みずき」でもいいなあと思いつけたのですが、せいちゃんと認識していただいていることが多いようです。みずきだと思ったあなたはハロオタですね?)
では、お見知りおきを。