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「ごめんね」の強要は何を生むのか

こんにちは!
今世で自分を活かし切って、本来の自分で輝く人だらけの世界を創りたい!と本気で思っている美智子です。

4歳の子どもを育てながら、フリーランスでいろいろやってます。

私はわりと他人軸で生きてきてしまったので、子どもには「自分で決められる人」になってほしいと思っていて。日々、子どもを尊重するとはどういうことなんだ!?と子育てしながら自分にも向き合っている。

「ごめんねしよう」は本当の気持ちを置いていってないのか

この間、子どもと室内で遊べる場所に行ったときに、これってどうするのが良かったんだろってずっと考えてたことがあってね…。

遊び場のお姉さんと、数名の子どもがトランポリンみたいなフワフワした遊具で遊んでいた時のこと。

息子と、一緒に遊んでた女の子が左右別の方向からから同時に飛んで、ぶつかってしまった。

ギャーと泣いたのは、息子。
もう1人の子はびっくりしたのか、泣いたりはしていなかった。

私は息子に駆け寄って、声をかけてなだめた。
ぶつかった子は大丈夫かな?と顔を上げると、お父さんとその子が私たちのそばまで来て。

お父さんが「ごめんなさいしよっか」って言ったの。

私は、待って待って!その子も痛かったはずだよ?って思って。

私は「大丈夫だった?痛かったよね?」って声をかけた。

お父さんは「謝ろうね」の一点張り。
キュッと固く唇を噛む女の子。

私は「お互い様なんで、大丈夫です!むしろすみません」と咄嗟に口にしていた。

息子が少し落ち着いた時に、なんかいたたまれなくなって「お互い様だから息子くんも謝ろっか」って言ってしまった。

が、子どもたちは、どちらも「ごめんね」は自ら口にせず、親同士で謝って、その場はおさまった。

それからまた同じ子と遊んだりしてて、子どもたち的にはどちらもわだかまりは持ってない感じにホッとした。

あのとき、どうしたら良かったんだろうって帰ってからもずっと考えてた。

「ごめんね」より思いやりの心を育てるのが先なんじゃない?

で、ふと思ったんだよね。
「誰も悪くないじゃん」って。

だって、子どもたちは楽しく遊んでただけだよね。
悪気があってぶつかったわけじゃない。

でも、どちらも痛かったことも事実。
だからさ、謝るとかじゃなくて

「どっちも悪くない」
「どっちも痛かった」
「周りを見てないと危ないね」
「次からは気をつけようね」
「握手!」

でいんじゃないか?って思ったんだよね。

このとき初めて「どっちが悪いとかじゃない」の思考になって、「痛かったね」「見てなくてごめんね」って気持ちが湧いてきたりするのかなって。
なんとなくね。

泣く、泣かないも、子どもたちの個性によって変わるし(うちの子はすぐ泣くタイプ)、泣いた方が謝られるって構図もおかしいよなって思っていて。

「謝りなさい!」って言うと
「僕は悪くないもん」
「僕だって痛かったのに」
「なんで僕だけ謝らなきゃいけないの?」みたいな気持ちが出てきちゃうんじゃないかなぁと思うんです。

「ごめんね」の強要は何も生まないどころか、本当の気持ちを押し込めてしまうんじゃないかなって思うところもあって。

こうやって常識の枠にはめられていってしまうのではないかと、少し危機感を覚えています。

ただ難しいのは「悪気はないのに、相手に嫌な思いをさせてしまった」パターン。

これって、保育園ではお互いのお話を聞いて謝るってことをしているみたいなんだけど、それが最善なのかなぁ?といつも疑問に感じています。

こういとき、私の子どもの時はどうだったかなぁと思い出したりして。

「ごめんね」って言えばいんでしょ?って思っていたこともあるよなぁとか。
本心で思ってない「ごめんね」ほど意味のないものないよね。

「ありがとう」と「ごめんね」が言えたらハナマルってよく聞く言葉だけど、それって本心じゃないと、まったく無意味だよなって個人的には思っています。

それから「ごめんね」「ありがとう」を本心で言えるの条件って「自分が整っていること」だと思っていて。

だからこそ、まずは「自分」。
この軸を持つことが大事なんだと子育てを通して学んでいます。

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